説教 20240204「聖霊をけがさないで」

マタイによる福音書12章22-32

 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 イエス・キリストはこの地上で活動していた姿には様々な側面がありました。それはおもに三つあります。第一は神の国を言葉で語りかけ教える方の姿でした。第二は神の国の到来の事実を人々への憐れみによる癒しによってあらわす方としてでした。第三は奇跡によって神の子としての栄光の存在を示したのでした。この物語は導入は癒しから始まり、次第に第一の教えに進みますが最後にはついにイエスは神の国の主であることの教えへと展開するのです。

 イエスがガリラヤ地方を中心に多くの癒しの働きを人々にされた時、そこにつねに付きまとって目を光らせる集団がありました。それがファリサイ派の人間たちです。彼らはイエスが安息日の律法規定をないがしろにしていると「安息日論争」をしかけたりしました。当該の出来事はイエスが彼らに対して行われた論争の一つで「ベルゼブル論争」と言われます。12章は全体が安息日のこ出来事で、このベルゼブル論争も同日のことでした。

 イエスは連れて来られた「目が見えず口の利けない人」を癒します。でもこの癒しの場面はじつにあっさりと短く、他の「タリタ・クミ」の少女の癒しや重い皮膚病の人の癒しなどの描写と違って癒される人とイエスとのやり取りは書かれていません。この癒しはその後のファリサイ派との論争のきっかけや導入として書かれているだけのようです。むしろ強調されているのは「群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った」という人々のイエスへの称賛の驚きです。 当然「ファリサイ派の人々はこれを聞き」、イエスの神的な癒しの力を曲解して言うのでした。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と。ここからイエスとファリサイ派の人間との論争が始まるのでした。じつに力強く断固にかつ確実に病者を癒すイエスの姿に対してファリサイ派はもはや「悪霊の力によって悪霊を追い出している」としか言えなかったのでした。すなわちファリサイ派はイエスを「悪霊」とみなすしかなかったのです。イエスが悪霊の頭ベルゼブルとは!これがもっとも信仰と律法の行いに熱心だった人間たちがイエスを見る結論でした。悪の力に対抗できるのは悪しかあるまい。それは決定的に神の子イエスを否定する言葉でしかありません。そしてそれはまた人が根本的に神をまったく信じない在り方をあらわす言葉でもあるのです。悪に対抗するには悪しかない、と。

 しかしイエスは言います。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか」。あなたの目の前に起きた癒しの出来事それを「悪霊ベルゼブル」の力のせいと言う。それはまさに「わたしは神の力を信じない」と言う言表にほかならない。ベルゼブルとは「一家の主人(あるじ)」という意味です。一家の主人(あるじ)いちばん強い者です。強い悪霊が病や害悪をどうして無くすことができるのか。悪霊が内部争いをするとでも言うのか。

 当時ファリサイ派やユダヤ教側にも癒しをする組織がありました。いわば祈祷集団です。癒しがベルゼブルの働きによるなら彼らもまたベルゼブルの仲間なのか。そうイエスは言うのです。ここで理解しにくい「彼ら自身があなたたちを裁く者となる」という言葉は、そうだったらあなたたちの仲間もベルゼブルのようにあなたがたファリサイ派を支配するだろうという意味です。

 イエスは最後にこう言います、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と。人間の過ちや罪は赦されるとイエスは言います。十戒にあるような盗む殺す騙す奪う。安息日を忘れ父母を傷つける。それらはみな赦されると言います。でも赦されない罪、霊を呪ったり悪口言ったり、霊に対する罪や冒涜とは何でしょう。霊に言い逆らうとはどんなことでしょう。それは「神なんか必要ない」という罪です。それは同時に「自分など必要ない」という罪です。霊に対する罪は自分に対する罪ともいえるのです。「悪霊がやってくれることだから」「この世には希望がなくていい」「祈らなくていい」「不幸なままでいい」。霊を冒涜することは自分を冒涜することです。そしてわたしのために十字架に死に復活したイエスと「共に」あろうとしないことです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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