説教 20240121「敵意を越えて」

創世記29章28~30章8

 「こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。

主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。」

 子どもが生まれるというのは本来親にとってとても幸福でうれしい祝い事です。ところがある状況の中ではそれが幸福の真逆の事態になっていまいます。この物語はヤコブの結婚から始まる子孫の出産という出来事ですが、よく読むとテレビドラマ並みのまさに泥々の愛憎劇が浮かび上がってくるのです。

 兄の脅威から逃れて叔父ラバンの元でよく働いたヤコブでしたがしだいにラバンの娘の次女ラケルと結婚したいと思うようになりました。叔父との話し合いで7年の働きの後、結婚が許されますが、一夜明けてみると相手は姉のレアでした。叔父ラバンもさるもの労働力を確保したいがために「姉をまず嫁がすのが我が習わし」などと言って娘姉妹二人とヤコブを結婚をさせ、合わせて14年間、最終的に20年間彼を働かせるのでした。

 ところが同時に二人の妻、加えて二人の召使いの側女を得てもヤコブの内心は唯々ラケル一人に向いていたため、もう一人の妻レアを「疎んじ」ないがしろにしていたのでした。聖書でさえ29章17節でレアを「優しい眼をしていた」と一語で書く一方、ラケルのことは「顔も美しく、容姿も優れていた」と念入りに表していて、これはその後のヤコブの結婚生活が只ならない緊張の中で営まれざるをえなかったことを示しているようです。

 それかあらぬか、じっさい、姉レアと妹ラケルという二人の妻の間で、妻としての功績ともされている出産つまり子づくりの競争というより争いが始まっていくのです。面白いのは31節を読みますと神が、まるでヤコブの家族を近隣社会の人々が興味深々にのぞき込んで判官贔屓して幸せ薄い姉レアに同情するかのようにも見えます。神はヤコブから大いに愛情を受けるラケルにではなく疎まれている姉レアに立て続けに4人の子どもを出産させるのです。するとレアはこの4人の子に自分の心情を刻み込むように名前を付けます。ルベン「苦しみを顧みる」、シメオン「疎んじられていることを耳にされ」、レビ「夫はわたしに結び付いてくれる」、ユダ「主をほめたたえよう」。苦しみからほめたたえへ、ヤコブに愛されないレアの心がなだめられていくようです。

 ところが一方、ヤコブから惜しみなく愛情を注がれているはずのラケルなのに一向に子どもが与えられず、やがて姉をねたむようになり、これがもとで夫ヤコブに憤懣をぶちまけます。「子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と。これに「ヤコブは激しく怒って」言うのです。「『わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ』」と。どうも、夫婦は愛している時ほど喧嘩すると言えるようです。それはじつに激しいやりとりだったでしょう。むしろ愛情が表立たなくなった時に、いちいち荒立てることもあるまいと、穏やかになるようです。少し気になるのですがこの時ラケルを諭しているヤコブの「神御自身なのだ」という言葉なのにどこか「神よ、あなた何してるんですか。どうにかしてくださいよ」というような神に対するヤコブの怒りが見え隠れしている気がします。

 そこで妻ラケルは召使いビルハを夫ヤコブに送り、二人の子を立て続けに産ませます。彼女は一人目をダン「正しい裁き」、二人目をナフタリ「死に物狂いの争う」と名付けますが、ラケルの負けず嫌いな側面をあらわしています。

 これを見てか姉レアもいっとき出産から遠ざかっていたことから、ラケルと同じやり方で子を得ようとします。それがレアの召使いジルパから生まれたガドとアシェルでしたが、どちらの名前にも「幸い」の意味がこめられ彼女の温和な性格が感じられます。

 さてそののちある騒動が起きます。それが「恋なすび」争いでレアの第1子ルベンが採ってきた「恋なすび」今日の日本風にいえば「まむし酒」でしょうかつまり精力薬草をラケルは自分にも分けてくれるようにレアに要求します。もう久しく夫から遠ざかっていたレアは「わたしの夫を盗った上に今度は精力薬までも」とラケルをなじりますが「恋なすび」をラケルにゆずれば今夜ヤコブをレアのもとに入らせるという約束を得ます。そのとおりレアはヤコブを得てイサカル「報酬(おそらく恋なすびの)」続いてゼブルン「贈り物」を生み、女子としてはディナも生みます。

 この時期の姉妹は敵対的でありつつも争い合うことより条件によって交渉するという関係に変わっていたのでしょう。ラケルにしてもヤコブの愛情はほぼ独占してはいても、子は召使いビルハをとおしてのダンとナフタリだけで実子をもうける名誉を得ていないという満ち足りなさがありました。でもついにラケルの祈りに神は応えられる時が来て、彼女はヨセフ「加える」を出産します。まさしくこれがラケルの初めての男子出産でした。「神は恥をすすいでくださった」というほどラケルは感極まったと想像できます。ラケルは後にも35章18節でベニヤミン「幸いの子」を生みますが、それはラケル自身の命と交換となった出産でした。

 こうしてヤコブから生まれた男の子どもたちの名は後の12部族の名前となっていきますが、ここでは女子ディナを別にすると11人です。それに実を言うとラケルの実子ヨセフは部族名にはありません。カナン定住時代の地図にはヨセフの土地はありません。ヨセフは少年時代からエジプトに売られエジプト宰相として生きました。部族を引き継いだのはヨセフの二人の孫マナセ(苦難を忘れさせる)とエフライム(増やす)です。

 こうしてみるとヤコブの労働も結婚も叔父ラバンとの抗争の中をくぐり抜けてきたような葛藤そのものであり、12部族の始祖の出産をになった母たちレアやラケルも一人の夫をめぐる汗みどろの愛憎劇の演者そのものと言わねばなりません。こうした人間的感情が渦巻く敵対関係の中のどこに聖書は神のシナリオを見るのでしょうか。

 スイスで発行されたある公認硬貨にこんな言葉が刻まれたそうです。「人間の混乱と神の摂理によって」と。背景には経済社会の変動があるでしょう。しかし経済の混乱ばかりでなく、神はわたしたち人間の混乱、憎み争いや、停滞さらには病や死を通してさえ正しくあり、一貫して愛によって働いてくださると言えるのです。ヤコブやラケル、レアが、さらにはラバンが意地汚く、まさに自分の欲得のために立ち回ろうとも、まさにそれらをとおして神は彼らを用い、彼らを生かし命の日々を見つめ支え導かれているのです。そしてわたしたちが信じるのは、そのようにたとえ世界が混乱し、欲望によって危機に瀕し滅ぼうとも神がその中にあってわたしたちの神であることを欲し、選びとってくださることにほかなりません。そこにわたしたちの身が存在が損なわれ、失われ、傷つけられようとも、わたしたちが自由に大胆に生きる日々が備えられているのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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