説教20250817「人生を売るな」

 創世記47章20-26

 ヨセフは、エジプト中のすべての農地をファラオのために買い上げた。飢饉が激しくなったので、エジプト人は皆自分の畑を売ったからである。土地はこうして、ファラオのものとなった。また民については、エジプト領の端から端まで、ヨセフが彼らを奴隷にした。ただし、祭司の農地だけは買い上げなかった。祭司にはファラオからの給与があって、ファラオが与える給与で生活していたので、農地を売らなかったからである。

 ヨセフは民に言った。

 「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。さあ、ここに種があるから、畑に蒔きなさい。収穫の時には、五分の一をファラオに納め、五分の四はお前たちのものとするがよい。それを畑に蒔く種にしたり、お前たちや家族の者の食糧とし、子供たちの食糧としなさい。」彼らは言った。「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。」

 ヨセフはこのように、収穫の五分の一をファラオに納めることを、エジプトの農業の定めとした。それは今日まで続いている。ただし、祭司の農地だけはファラオのものにならなかった。

説教

 先の8月15日は「終戦記念日」でした。戦後80年ということで多くの平和の行事やメディアでの特集がありました。ただこんにち日本ばかりでなく世界の現在の状況をもはや「戦前だ」と呼ぶ流れがあると言います。世界の終末時計は2025年1月時点では残り89秒となりました。80年前の大戦の痛みを忘れ、大国の指導者は自国中心に走り、再び他国を敵視し、小国を蹂躙しています。また貧富格差拡大で困窮化した大衆層は難民を排除し人種差別を突き進め今にも民主主義を崩そうとしています。こうした中で高揚しているのが民族主義です。隣国ヘイトに凝り固まって自国ファーストばかりを正義の牙城のように掲げます。

 かつて第二次世界大戦にあってドイツの群衆がこぞって「ナチス・ヒトラー」を諸手を挙げて歓迎した状況を分析したのはエーリッヒ・フロムでした。彼は『自由からの逃走』という本で、当時のドイツ民族がまるで自分の誇り高い自由をかなぐり棄てるように独裁者ヒトラーに追随していった状況を分析します。フロムは人々がこの自分の主体的自由を棄ててまで独裁者への従属を喜んだ根底に、第1に底知れぬ「孤独や不安」それも自己破壊的な「孤独や不安」があったと言います。なぜ自分ばかりが、というような「社会や人間関係からの断絶感」ですが、それはこんにちの「コロナ不安」や「ブラック企業孤独」にもつうじます。第2にはそんな「不安や孤独」に対する反動が暴力的な集団圧力や同調的高揚を作り上げたと言います。そして第3にこうした同調的集団の圧力がユダヤ人などの異人種や他国人を差別し破壊的な誹謗攻撃の的としてしまったといいます。他者を攻撃しようとする暴力的な心の中には、自分自身を破壊しようとする「自己破壊性」があるからというのです。

 この創世記47章13節からの物語は、さらに過酷となった飢饉のもとでエジプト宰相ヨセフと民の取引がなされ、民が自由を放棄し王の奴隷となり従属していく様子を描いています。ここにはじつにネガティブで暗い言葉がたくさん出てきます。「飢饉が極めて激しく、世界中に食糧がなくなった」(13節)。「飢饉のために苦しみあえいだ」。「見殺しになさるおつもりですか」(15節)。「わたしどもと農地が滅んでしまってよいでしょうか」(19節)。民を取り囲んでいた不安や怖れが克明です。最初はカナン地方の民が「食べる物をください」という要求をしてヨセフから家畜の牛や馬などとの交換に食糧を与えられ、まずは事なきを得ます。しかし飢饉はさらに続き、人々は今度はその農地を自分たちの「体」と共に王に供出し代わりに「種」をもらうのです。つまりここに人々は自分から「わたしどもは農地とともに、ファラオの奴隷になります」と言ったのでした。いきさつの描写は短く簡単ですが事態は長く深刻だったのではないでしょうか。そんな飢饉による瀕死の窮乏窮状の末に「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます」(25節)とエジプトにいるすべての人々は言ったのです。この言葉は交換条件によって食糧が得られるというたんなる安堵感だけを表してはいないでしょう。自分の口から「ファラオの奴隷にさせていただきます」と言う言葉の裏には、権力を持つ王に心酔し、その手のうちに自分のものである農地も命も投げ出してしまう滅私的な帰属感や依存感そして隷属への高揚感があったと見ることができるのです。

 そしてまさにこの民とエジプト王との「奴隷契約」のこそ、後の『出エジプト』という神によるイスラエル救出劇への重大な淵源となっているのです。死の不安や孤独の恐怖から逃れようとして喜んで奴隷となったイスラエルの民はやがて重労働に苦しみ喘ぎます。食糧のために地上の王国エジプトと奴隷となる契約をしたイスラエルの民は喜んで受け入れたはずの奴隷のゆえに苦しみ嘆くことになります。『出エジプト記』ではエジプトはもはや「奴隷の家」と呼ばれます。生きるために選び取った幸福の「奴隷」はそこで本性を剥き出しにして契約相手であるイスラエルの民を絶望へと突き落とします。

 ちなみに37章以降を見回しますとヨセフとエジプトの関係が親密で良好に描かれついにエジプトの権力の最高位にまで挙げられるという経緯の背景にはエジプトの国家事情があったと推察されます。それはヨセフの時代のエジプトはヒクソス民族による占領政権であったと思われます。そのためこの占領政権はヨセフのようなエジプト人以外の他民族人の有能者をエジプト支配のために登用して、全権さえも委任するほどに他民族には寛容であったといえます。しかし430年後のエジプトは再びエジプト人の王の支配下に戻され、他民族支配であった時代のヨセフの名を知る者はだれもいなかったというのは当然だったのです。まさに権力者は変貌するのです。わたしたちは王が専制者が独裁者が生かしてくれたと喜ぶでしょう。しかしその王も独裁者もやがていつかはわたしたちを苦しませ殺すでしょう。

 サタンはイエスに世界中の繁栄を見せて言いました、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。その繁栄とは権力によって生まれる幸福です。独裁者に自由を奪われた平和です。今日の言い方をすれば、「核兵器はいちばん安上がりの安全だ」となります。そんなサタンの幸福にわたしたちは招かれるべきではありません。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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