説教 202201002 マタイによる福音書9章1~8節 「罪の赦しは立ち上がらせる 」
― 今、ここで生かす愛 ―
ある日、中風という病気にかかった友人をなんとか助けたい治したいと、主イエスのところに病人を床に寝かせたまま連れてきた人たちがやって来ました。どんな医者からも見放されついに癒しを主イエスに願い出たのです。当時「中風」はただの病気ではなく神しか癒すことができないものだったのです。イエスなら中風を治せると信じ、一心に彼らはやって来ました。
主イエスは言いました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と。じつはその言葉こそ彼らが聞きたいと思っていたものだったのです。「罪の赦し」。もうそこに行きつかなければそれが与えられなければ、中風の人も友人もまた生きていくことができないほどの悲しみと絶望にさいなまれていたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」。この言葉は中風の人ばかりでなく連れてきた人々にも向けられた救いの言葉だったにちがいありません。2節にありますように「イエスはその人たちの信仰を見て」、罪を赦されたのでした。癒されたのは中風の人ばかりでなく仲間も罪から解き放たれたのです。
ところがここに律法学者がいてこう考えました。「この男は神を冒涜している」でした。彼は律法を行うことがもっとも正しいと考える人間でした。それはなるほど正しい言い分です。詩編103編3は「主はお前の罪をことごとく赦し」と歌い、ダニエル9章9は「憐れみと赦しは主である神のもの」と言います。だから人間が罪を赦すことなどあってはならないことです。
それを見抜かれたイエスはこう言っています。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(5節以下)。そう言ってイエスが中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言葉をかけられると、ほんとうに彼は起き上がって家に帰って行ったのです。
ここで群衆が目の当たりにしたのは「イエスの権威」でした。惨状の説教の最後にも人々はイエスの権威に驚嘆したとありました。権威とは何でしょう。律法学者は律法こそ絶対の権威というでしょう。しかし主イエスの権威は全く反対のことでした。それは神の律法を言い換える権威です。「あなたの罪は赦される」という言葉は「起きて歩け」という言葉にならなければ何の意味もないことをイエスは知っていました。これこそ権威です。罪は今すぐ赦されねばならないのです。人間が生きていくためには、その時そこでの赦しがなければなりません。いつか赦されるのでは生きるためにはもう間に合わないのです。罪の赦しを「起きて歩け」と言い換えることのできる権威です。律法の著作権者である神の御子の自由な権威です。
そして次の聖句に驚かされます。
「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」(8節)。
人間です。この権威を持っている方はイエスという地上の今そこに生きている人間の存在を生きられる方なのです。生き生きとした人間の姿をとられた神の子イエスに権威が現れたのです。難しい律法の権威ではなく愛と優しさに溢れた権威です。
罪を赦すとは「罪を取り払う」という意味です。「罪と関係なくする」ということです。「罪からすっかり解き放たれて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言い換えられるのです。「床」とは精神医学では「死の床」と言うようです。人々によって死の床に横たわったまま担ぎ込まれたわたしたちにイエスは罪を赦して「日々、生活の中で立ち上がって生きよ」と言われるのです。
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