説教 202200821 創世記21章1-21節「神は子の泣き声を聞かれた」

― しっかり抱き締めてやりなさい ―

 ハガル。それはわが子を抱き締めることのできない母親でした。その子の母親となることのできない女性でした。何故?それはその子イシュマエルが母ハガル自身の思いによってでなく、仕えている女主人サラの要請によって生まれることを求められて産み落とされた存在だったからです。

 かつて神がアブラハムに大いなる国民の元となる長子の誕生を約束された時、すでにアブラハムは百歳にならんとする老人でした。当然妻サラも子どもを産める年齢ではありませんでした。神から契約を聞いた時アブラハムは密かに笑いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と。ソドムを裁くために来た神の使いから翌年にいよいよ嫡子が生まれると聞いた妻サラも天幕の向こうで笑いました。

 神の約束を信じられず笑いものにしたアブラハムとサラは一計を案じました。サラは自分の側女(そばめ)つまり女奴隷のハガルにアブラハムの子を産ませ正妻としての証しを立てようとしました。サラの命(めい)によって産ませた子だからサラの子だというわけでしょう。

 ところがやはり人間の性(さが)です。主人サラが叶わない妊娠を自分ができたという思いが慢心となり側女ハガルは女主人サラを軽んじるようになります。これに腹を立てた正妻サラはアブラハムに訴え、ついにハガルは家から追われてしまいました。ただこの時、神の使いが現れハガルを慰め彼女をアブラハムの下に帰しようやくイシュマエルが産まれます。その後ついに神の約束は遂げられ、アブラハムと妻サラの間に待望の嫡男イサクが誕生します。でもこうして生まれた二人の子どもをサラは公平に見ることはできませんでした。ハガルの子イシュマエルがサラの子イサクをからかうところを見て怒りハガル親子を追い出すようにアブラハムに迫ります。

 サラの要求に心引き裂かれるまでに苦しむアブラハムでしたが、神からサラの思いを受け入れることを命じられます。ついにハガルとイシュマエルはパンと水だけを携えて荒れ野へと追われてしまったのでした。焼け付く太陽と渇き切った大地に放たれたハガルの心情は察してもあまりあるものではないでしょうか。

 けれどもここで一つのことがはっきりとします。それはハガルはこの荒れ野で初めて自分がイシュマエルの真の母親であることを知ったということです。ハガルという名は「逃れ、逃亡」という意味を持つそうです。荒れ野に逃れてすべてを失った時ようやくハガルは母親の目でわが子イシュマエルを見つめます。しかしその時、母ハガルの目に飛び込むものはまさに熱射と渇きに息絶えんばかりのわが子イシュマエルの姿だったのです。親なれば誰でも子の幸せを望むでしょう。でもハガルの目に映るものは愛する子の痛ましい瀕死の惨状でした。

 この時、ハガルの心に沸き上がったものは何でしょう。自分たちをなじったサラへの憎しみでしょうか。追い出したアブラハムへの恨みでしょうか。いやそれよりもハガルの心を責め立てたのは今さらながら気付いたわが子に対して何もしてやれない無力な母としての焦燥感、罪意識にまみれた虚しさでした。

 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」(16節)。子どもの死を見ることの悲しさばかりでなく、わが子を助けられず幸せにしてやれない自分の罪への絶望の叫びでした。「ごめんねイシュマエル、抱いてあげられなくて。ゆるしてイシュマエル、助けてあげられなくて」。この子の母であることの重大さに気付いた時、ただ泣くしかないハガルでした。

 しかしこの時神の使いが言います。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい」。つまりこう言うのです。「お前の子の叫びは神に聞かれた。神がそばで守っておられる。お前の役割はその子をしっかり抱いてやることだ」と。

 それはこういうことではないでしょうか。「人よ、あなたはあなたの最も愛すべき者を愛せない。尽くすべき者に尽くせない。あなたは罪と弱さにまみれている。しかし人よ、神はあなたの愛すべき者を愛し、助くべき者を神ご自身が助け、あなたに代わって救おうとされる。真の愛は神にある。だからあなたはその神の愛に付き従って愛し助けなさい」と。

 ここでわたしは一つの聖書の言葉を思い浮かべます。それはローマ書7章24節以下のパウロの言葉です「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。なすべき善を行えない悲惨な人間、しかしその人間がいかにキリストによって全うされていることかと言います。これがわたしたちです。ハガルが自分の子を愛せなかったようにわたしたち人間は人をも神をも自分の愛したい者をも愛せません。神に、愛に背く罪を背負っています。

 神は言われます、「しっかり抱き締めてやりなさい」。この言葉によってハガルは抱き締めることができます。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。それはイエスキリストの命の水です。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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