説教20250803マタイによる福音書18章6~9 「自我の奴隷となるな」
聖書
しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
説教
私の故郷の瀬戸は陶磁器の町です。古くからの窯元に行くと昔陶土を粉砕するための巨大な花崗岩の臼が庭石代わりに置いてあります。厚さ50センチ直径1メートル位もあり、とても人力では動かせません。一時若者の間で十字架のネックレスを身に着ける流行がありました。首元でキラキラと揺れて本人をひきたてます。でもこの十字架のネックレスの代わりにこんな石臼を括りつけられて海なんかに沈められたら、もう絶対に助かりませんね。この聖句での石臼はおそらく粉挽き用でしょう。それでも大変に恐ろしい喩えをイエスは言っています。正確には「海の深みに沈められる」です。もう二度と現れて来るな、というような意味が込められています。いったいどうしてこんな恐ろしい呪いのような言葉がかけられるのでしょうか。
前段でイエスは子供を例に「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言いました。まさに「海の深みに・・・」という恐ろしい言葉をかけられるのはこの「小さな者」をつまずかせる者だとイエスは言うのです。「つまずかせる」や「つまずきをもたらす」とかこの短い句に6回も語られます。「つまずく」というと転倒することを連想します。順調な歩みが失敗することです。そして新約聖書で「つまずき」とは「不信仰や疑心に人を誘い込むもの」という意味です。幼い子供を傷つけて純心さを奪ってしまったり純朴な信仰者に疑いの心を植えつけてしまうようなことです。こんにち有名人や芸能人がスキャンダルで信用や人気を落としたなどと言います、その「スキャンダル(疑獄・醜聞)」の語源がこの「つまずき」です。
イエスは言います、「つまずかせるな」と。それは厳しい忠告です。「世は人をつまずかせるから不幸だ」また「つまずきをもたらす者は不幸である」と「つまずき」がどんなにか罪深いかを言います。また「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」とどんなにか重い代償を払ってでもつまずきを避けることを命じているのです。
海の深みに沈められたり火の地獄に投げ込まれねばならないほどに重い罪であるこの「つまずき」とはどんなことだとイエスは言うのでしょうか。それは「人を自分の奴隷にすること」です。相手が子供にかぎらず立場の弱い人や低い人を自分のための奴隷のように見ること扱うことです。目の前の隣人を人格を持った存在として受けとめないで我が身を肥やすための奴隷としてしか見ないということです。
かつてNHK交響楽団のフルート奏者であった吉田雅夫さんが世界的に有名なアンドレ・ジョネ先生からレッスンを受けたそうです。ジョネ先生がまずバッハの曲を演奏して次に吉田さんに演奏させました。吉田さんは一生懸命ジョネ先生を模範に吹いたのですが、その後先生は辞書を開いてある単語を指さしました。それは「奴隷」という言葉でした。君は芸術家ではなく私の演奏の奴隷になろうとしている、もっと自分のバッハを演奏しなさいというのでした。
以前あるスーパーマーケットの壁面に近隣の幼稚園の園児らが描いた「母の日のためのお母さんの顔」の似顔絵が何十枚か貼ってありました。見て驚きました。なんとどの絵も同じ顔だったのです。丸い顔、やや丸い顔、ちょっとひしゃげた顔、多少の違いはあれ、ドラえもん顔の絵描き歌「マル描いてチョン」なんです。きれいに描けているけど一様に先生が指示したとおりの「お母さん」の顔なんです。そこには家で見ているお母さんの表情はありません。幼稚園のお絵描きの時間で子供たちの脳裏には自分だけのお母さんが映っているのでしょうか。
河合隼雄氏は「多くの教師は、生徒の個性を磨こうとせずに、自分の奴隷を創り上げようとしてはいないだろうか。それはどうしてだろうか。それは、生徒の個性は教師をおびやかすものであるからだ」と言っています。「自信のない教師にとっては、少しでも自分と異なるものは、自分の安定をくつがえそうとするものに見えてきて、それだからこそ、生徒が奴隷になることを望むことになってくる」とも。
隣人の信仰を邪魔すればそれは「つまずき」となります。しかし隣人の信仰を評定したり点数づけることも「つまずき」です。自分と違うからと隣人を正してやろうというのも「つまずき」です。さらに隣人に「真の信仰」を教え込もうというのも「つまずき」です。隣人を正そうとしたり教育しようとしたりして裁くとき、人は他人を「つまづかせ」、その人を奴隷のように扱おうとするからです。そして悲しいことに隣人を自分の奴隷にしたくなる人は、自身が奴隷だからです。
イエスはこう言われます、罪にただれ囚われた者は他人をもつまずかせ罪に陥れようとする。他人の罪を指摘したりあげつらう者自身がすでに罪の奴隷なのだ。暗く罪におびえる奴隷人は罪なく明るい自由人を羨ましく思い罪へと誘う。罪の奴隷は自由に生きる信仰者に反感をもち奴隷にしようとする。それは肥え太った自我から逃れることのできない奴隷の姿だ。自我を膨らませて自分を神のように思う時、巨大な自我は重い石臼のようになってみずからを深い罪の孤独の底につなぎとめるだろう。
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