説教 20220619 創世記18章16-33節「神に食い下がり祈れ」

― その一人のために滅ぼさない ―

 これは「罪は非常に重い」というソドムとゴモラの町にたいする神の裁きの記事です。ただよく読むとそれは悪のはびこる町が神によって滅ぼされる描写だけではないことに気づかされます。それに先立つ前半には町を滅ぼそうとする神になんとか正しい者を救ってもらおうと嘆願する「アブラハムのとりなし」の物語が描かれるのです。それは後半の恐ろしい破壊の状景とは違い、動かしがたい意志で裁きに向かう神の前でどんどん小さく低くなっていくアブラハムの姿です。後半の滅びの光景は轟音が轟くのに対しここではアブラハムのかすんでいきそうな哀願の声とそれに答える透徹した神の声が響き渡ります。アブラハムは神に問います。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」。そして、ここからアブラハムと神との印象的な「正義と裁き」の議論が始まるのです。

 「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」とアブラハムは「正義の神がそんな無分別に正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなこと」されますまい、と神の正義のありようを讃えつつもこれを盾に正しい人間の救いを神に迫ります。

 神もアブラハムの訴えに応えられれます。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」。神から「赦す」という言葉が聞けました。しかしアブラハムは五十人と言ったことにたいし「五十人ではないかもしれない」と不安になったのです。その後アブラハムは幾度となくこの人数を少なくして、できるだけ少人数の条件を神に示していきます。

 それはまるで神の前に裸で立たされた祈りといえるのではないでしょうか。「五十人に五人足りないかもしれません(そんなたくさんの正しさはありません)」と後ずさりして減らします。神に向きあって自分をよく見れば正しさのない自分をおずおずと神に告白せざるをえないのです。次第に自己評価が失われていくのです。「四十五人でも滅ぼさない」と言われる神にもっと本心を表せば、「四十人しか」いや「三十人しか」いや「二十人しか」そして「十人しか」とどうしようもなく身は縮まり、何度も「何々人しか」と正しさも重みも吹き飛ばされ、自分たち人間の不正義の罪に近づいていきます。本心は「(ほんの)一人しか」に行きつこうとしたかもしれません。心を突くのは人数を減らす毎にアブラハムが神にたいし「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて」とか「もしかすると」とか「どうかお怒りにならずに」と神に赦しを請うように言葉を積み上げていく様子です。それは祈りの本音の言葉ではないでしょうか。

 これを救いの値切り交渉と言った人があります。そうでしょうか。いえ、これは祈りです。しかしただの祈りではなく、次第にそして遂に最後のところにまで追い詰められて行く祈りです。

 こう問わざるをえません。十人の先を言わないのかと。ついに「もし一人しかいないかも」と言わなければならなくなった時、その正しい一人は誰のことを言うのでしょうか。パウロは言っています、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」と。

じつはこの神の赦しと救いを求める祈り、それはどんどん自分の不正義と罪が鮮明にされる祈りです。それは行き詰まり、神の正義に追い詰められ、あえて言えば失敗せざるをえないのです。わたしは言うでしょう「一人もいません」と。わたしたちは最後の言葉「その十人のためにわたしは滅ぼさない」の前に立たされています。その「滅ぼさない」が正しさの一人もいないわたしを追いかけてくださることを信じて。その時この祈りの失敗者にむけて知らされます。「いや一人おられる。十字架の上におられる」と。イエスキリストがおられるのです。

 祈れば祈るほど追い詰められるアブラハムの祈りの先にわたしたちの赦しがあります。救いが待っています。

 わたしたちの罪の深さと弱さをイエスキリストが背負っています。それゆえに祈ることができるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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