説教 20220703 マタイによる福音書8章5-13節「言葉には命がある」

― 生ける神の言葉は癒す ―

 「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。

 イエスにこう懇願したのは「百人隊長」と呼ばれるローマ人でした。彼らはローマ帝国から送り込まれた軍人としてユダヤ人からは嫌悪の目を向けられていました。もしユダヤ人が彼ら異邦人の家に入れば途端に汚れてしまうと考えられていました。そんな因習を思って彼は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言ったのでしょうか。しかし百人隊長の思いはちがいました。

 「ただ、ひと言を」。イエスのたった一言の言葉にこそ病に倒れた僕を癒す力があると信じたからでした。彼はイエスの癒しの力を信じていました。イエスの癒しはただ見かけ倒しのいかにも「救済者」を匂わせる風体から来るのではない。またイエスのどこか「神秘的な」存在に触れることでも、唱えればそれだけでよい「神託」にあるのでもない。イエスはその命から溢れ出る愛によって語りかけ、その言葉をもって癒し救ってくださると信じたのでした。

 だから彼はここにあえて「癒してください」と言ってはいません。それを口にするまでもなく癒されるイエスの愛を信じたのでした。イエスはかならず応えてくださると。そしてまさに彼の願いのとおりイエスは彼に向かって「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのでした。そう、このイエスの強い思いさえあればただの「ひと言」であろうとかならず癒されると彼は信じたのでした。

 思えば百人隊長のこの信仰はわたしたちの日々の生活と同様ではないでしょうか。わたしたちは一週間の最初の日曜日に主日の礼拝から出発して現実の生活に向かいます。それは聖書から与えられた神の言葉を携えて、癒されあるいは勇気づけられあるいは激励されて生きていく日々となります。家へと携え帰る神の言葉がわたしたちの生活の中で生き生きと働いてくださるのです。

 さてキリスト教は「言葉の宗教」と言われます。言葉とは何でしょう。それは「メッセージ」と言ってよいでしょう。誰かから誰かへ何かを伝えようとするものです。何を?それは相手に対する思いやり、感情、願いそして愛です。「わたしが行って、いやしてあげよう」とイエスが語りかけられる言葉は力強いメッセージを伝えてやみません。イエスが心から願われる愛が伝えられた言葉から溢れ出て人を癒すのです。

 その時、百人隊長は言いました。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。彼も言葉を大切にする立場にありました。「権威の下にある」とは「権威のきずなに結ばれた者」という意味でしょう。この「権威」はけっして上官の命令に一言一句従うことを要求する専制のことではありません。彼にとって権威はその下にある者の自由や意志を抑圧蹂躙するものでなく心からの「信頼と従順」をこそ引き出すものであり、メッセージである言葉の出発点にほかならなかったのです。「権威」は「主権」と言い換えてよいでしょう。それは「神がわたしたち人間のために主となり、罪の重さを荷う方となってくださる」ことです。百人隊長はイエスの愛の主権に出会った時いやおうなく信頼と従順をイエスに告白せずにはおれなかったのでした。

 「イエスの言葉」は聞く者に自由な信頼や従順を生まずにおかない救いの福音です。それは相手を拘束し有無を言わさず服従を強制するような「教え」や「正論」であることを拒否します。イエスは病める人を訪ねて主権をもって「あなたは立ち上がれる」と語り、罪を犯した人と共にあって「あなたの罪はゆるされる」と告げられます。それはこの世では「不正解」以外のなんでしょうか。人の償いなしで罪が赦されるとは。キリストは言葉によって痛む人々を無償で救われます。これこそキリスト教が言葉の宗教であるゆえんです。

 聖書はイエス・キリストのことを「生ける神の言葉」と呼びます。神が語られた言葉がイエスキリストというのです。イエス・キリストの生と死で神はわたしたちに愛を告白されたのです。「初めに言があった」と語りだすヨハネによる福音書はイエス・キリストである「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と言います。イエスはまったく新しい命に生かします。

 「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。これはわたしたちを驚かせる言葉ではないですか。「わたしの言ったとおりになるように」ではありません。「あなたが信じたとおりに」です。僕が元気になると信じたら元気になるのです。自分が強くなれると信じたら強くなるのです。わたしたち人間が生きるのです。

 その僕はちょうどその時、家にいてほんとうに癒されたのでした。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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