説教 20220605 使徒言行録3章1~10節「イエスの名を聞くとき」

― 彼の名は心躍らせる ―

 今日はペンテコステです。身を潜めていた弟子たちが突風と轟音の中で神から聖霊を与えられたという日です。弟子たちは諸国の言葉を語りだし力強くイエスキリストの救いを証しだしたのです。この「美しい門」での奇跡もその日の直後の出来事だったと言えます。

 よく読むとこの物語はイエスキリストの「名」を中心にしています。そして次の4章にまで描き続ける物語です。それはたんに奇跡物語で終わらないようです。次のページの16節にもキリストの名は語られ、4章ではさらに12節、17節18節と立て続けに書かれています。まるで聖書を書いている人が「キリストの名」を自分で叫びたいようにです。そして「キリストの名」によって足を癒された彼も神殿で証しする弟子とずっと一緒に居続けます。なぜそれほど「名」を言うのでしょう。それは「キリストの名」こそが聖霊だからです。

 毎日のことだったのでしょう、彼は祈りの時刻に合わせてモノのように運ばれて来て、毎日を「哀れまれる」ためにそこに座っていました。「美しの門」とは裏腹に人に見下される惨めさが「なりわい」となり自分でもそれを当たり前のように思っていたでしょう。そこにキリストの弟子ペトロとヨハネの二人が来たのです。当然のように「哀れみ」を乞う彼にいつもの「それ、お金だ」という声は違う言葉が返ってきました。「わたしたちを見なさい」。それは「見られて与えられる」ことだけで暮らしてきた彼には思いもよらない言葉でした。「わたしたちを見よ、わたしたちが何によって生きているかをあなたは見なければいけない」と。何か施されると期待した彼にペトロは言ったのです。「わたしたちに金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。同時に「右手を取って彼を立ち上がらせ」ると、「たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして歩き出した」のでした。それも聖書は「躍り上がって」と加えます。さらには「歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行」き「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見」て、「それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」と人々の驚嘆の様子を書きます。

「ちむどんどん」という言葉は今のテレビの朝ドラマの題名です。沖縄の言葉で「心がドキドキする」という意味だそうです。ドキドキするときはありますか。運動会で自分が走る番になった子供、就職の面接室に入る学生なんかがそうかもしれませんが、ちょっと違います。これは「胸が高鳴る」という感じで、緊張して気持ちは引き締まるけど素晴らしいことの始まりに心が躍動するという意味のようです。さあいよいよ待ち望んだ仕事をするぞとか夢見た土地に行くぞとか。

でも、ほんとうに奥底から心が沸き立つのはどうでしょう。皆さんもすでにご経験のある時、すなわち愛する人の名前を聞く時、また呼んで会える時ではないでしょうか。恋人が彼や彼女の名を耳にする時、訳あって親と離れていた子供が「お母さんが、お父さんが来たよ」と聞く時、思わず立ち上がるほど心に喜びと力が溢れるでしょう。その人の名前を聞いたら立ち上がらずにはおれない。黙っておれない。誰にだろうと伝えずにおれない。愛する人の名前にはそれほどの力があります。この「美しの門」で足の不自由な男に起きたのはまさにそのような、あるいはそれ以上の躍動の出来事でした。

 「イエスキリストの名」とはまさに「聖霊」を言い換えたものと言わざるをえません。「名前」はたんなる記号や符号ではありません。それはその名を持つ人の人柄や人格、品性の全てをあらわさないでしょうか。子どもなら親の名を聞くなら愛情深く抱き上げてくれる両親を思うでしょう。恋人ならば好きな相手が優しく微笑んでくれる顔を思い浮かべるでしょう。彼を躍り上がらせたのは明るく優しい顔、大きく手を広げて心から迎え入れてくれる方だったでしょう。癒された彼が躍り上がったのは「キリストの名」を持つ方が彼に測り知れない愛の赦しの言葉をかけられたからにちがいありません。「もう座ってなくていい。立ち上がりなさい。あなたを縛っていたあなたの運命はもうなくなったのだよ。わたしがあなたをささえてあげよう」そう「イエスキリストの名」が彼を照らしたに違いありません。

 ひとつ注目することがあります。それはここにはあまり「信仰」とか「信じなさい」とかの言葉が出ていないことです。弟子たちは足の不自由だった人に「信じなさい」とは言わずただ「わたしたちを見なさい」と言ってそのまま彼の右手をとって立たせたのでした。信仰という言葉が出るのはやっと16節です。それは「イエスの名を信じる信仰」さらにはっきりと「イエスによる信仰」と言います。

 信仰とはイエスキリストに救われるとき生まれるものです。神がわたしたちを愛してくださったから神を信じるのです。聖書を読み、キリストを見るとき信じます。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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