【中止/ご自宅用の礼拝内容を掲載しました】4月19日(日)

愛知県の緊急事態宣言を受け、しばらくの間、コロナウイルス感染拡大を避けるため大勢が集まるのを控えて、家庭礼拝を捧げます。再開につきましては、新着情報でお知らせいたします。

家庭礼拝をささげていますが、主日礼拝の時間中、吉胡伝道所は開いております。
どこにいても、讃美歌を歌い、聖書を読み、お祈りし、礼拝を捧げることができます。下記に高岡先生がつくってくださったご自宅用の礼拝内容を掲載いたします。

2020年4月19日 田原吉胡伝道所主日礼拝(家庭版:この順序でそれぞれ礼拝をおささげください)
主の祈り
交 読 詩編61編2~9節(旧約894頁)
讃美歌 17 聖なる主の
聖 書 フィリピの信徒への手紙4章2~9節
讃美歌 157 いざ語れ、主の民よ
使徒信条
説 教 「神は心をつなぐ」 高岡 清牧師
頌 栄 28 み栄えあれや
黙 祷

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説教 「神は心をつなぐ」 牧師 高岡 清

 今年の年頭から問題になっていた新型肺炎の感染が世界中に広がり、いよいよわたしたちの生活に影響が及んでいます。田原吉胡伝道所においでになる皆様やご家族の上に神のお守りがあるように心から祈ります。とくに、今叫ばれていることは「家にいなさい」(stay home)という要請です。肺炎の感染を未然に防ぐために、先ず第一にしなければならないこととして他人との濃厚な接触(近距離での会話や集会)をしないことが求められています。人と会うな、近寄って話し合うな、人ごみに行くな、複数人で狭い部屋で作業をするな。子どもたちは学校に行けません。でもじっさいにそうした、なるべく他人に会わないという生活になってみると、日ごろわたしたちがどれほど他人とのつながりの中で日々を過ごしているかを感じさせられます。いつもなら隣人といっしょにいることで色々なことを知り、友だちに自分の思いを伝えて共感や反応を知る。それが十分にできない今、わたしたちはどこか心に寂しさを感じてはいないでしょうか。
 キリスト教に昔から「三元徳」という美徳があります。人間の心の三つの良い在り方と言ってよいでしょう。「信仰」「希望」「愛」です。聖書のコリントの信徒への手紙一の13章13節で「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とパウロが書いています。ここから後世の人々がこの3つを「三元徳」と掲げました。命を投げ出してわたしたちを救ってくださったイエス・キリストを信じること、わたしたちがどんなに無力で悲しい中にいても決して見棄てることのないない神の計画を見つめ希望すること、そして「最も大いなる」と呼ばれている愛。わたしたちをどこまでも愛してくださるあの神を愛し、その愛によってわたしたちに託されている隣人への愛、これが「信仰」「希望」「愛」の三元徳です。
でもこれをよく考えてみると解るのは、その三つどれもが「神とわたしたち」、「わたしたちとわたしたち人間どうし」をつなぎ、結びあうものだということです。「信仰」「希望」「愛」は自分独りが賞賛されたり立派になるような「悟り」でも「心得」でもありません。お互いの結びつきのなかでこそわたしたちは神であれわたしたちであれ相互に高めあうのです。
 本日のフィリピの信徒への手紙4章2節以下は、まことに美しく感動的な言葉ですが、じつはこの「信仰」「希望」「愛」の三元徳を土台にしているといえるでしょう。まずもって書かれているのが「エボディア」「シンティケ」という二人の個人名です。二人の間に何があったのでしょうか。「主において同じ思いを抱きなさい」と訓告されています。パウロはフィリピの教会の監督者(今日の牧師にあたる)に「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」と呼びかけて二人を共に助けてやるようにすすめます。ちょっと気持ちの合わなかった二人だったでしょうか、主イエスの心を共に抱くようにすすめます。なぜなら二人とも「主イエスのために福音のためにわたしと共に戦ってくれた」のだから。二人は主イエスのためには結ばれ合っている同士だから。
 ここからパウロはいよいよ、フィリピの人ばかりでなくどんな人にも聞いてもらいたいという思いをもって、素晴らしい言葉を語ります。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(4~7節)。
ここに「~なさい」という言葉が5回も出てきます。どこかの店とか仕事場に「なんとか十箇条」(「お客様は神様と思うべし・・」)などを思い浮かべますが、それとはまったくちがいます。「~なさい」5回の言葉にまぎれて、驚くような言葉が言われているのです。
「主はすぐ近くにおられます(近くなられた:とも読めます)」
「神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
ためしにこの二つの言葉を抜いて読んでみてください。連続5回もの「~なさい」が続くと、なにか癇(かん)に障(さわ)るとまでは言わないけど「いやこれはちょっと重いな」というような気がします。ところが「主はすぐ近くに・・」と「神の平和が・・」を抜かずに読むと、なんと「うん、そうか、やってみよう。やろう」という気になりますよ。でも面白いことに、この二つの「主はすぐ近くにおられます」と「神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」は5つの「~なさい」の文脈には直接つながりが無く、割って入ったような気がします。「喜びなさい。それというのは主は近くだからかくかく・・」?などとパウロは説明しません。
パウロが「喜びなさい」とすすめるのは、わたしたちが悲しみや苦しみを乗り越えるような力を持った強い人間だからじゃないのです。人に広い心をあらわせるのはただ自分が潔いからじゃないのです。気持ちや心を上手に整えて・・それで喜べるようになる、というのではありません。わたしたちが喜べるのはただ「あの方、主がもうこんな近くにいてくださる」からなのです。人間は弱いものです。幼児は親からはぐれてとんでもない恐怖に突き落とされても、親の顔を見た途端に安心します。選手は信頼するコーチがドシっと構えて見ていてくれると限界に突き当たりそうな時でも、今まで以上の力が自分から出てくることがわかります。
 なるほど「喜びなさい」「広い心が知られるようにしなさい」「思い煩うのはやめなさい」「感謝を込めて祈りと願いをささげなさい」「神に打ち明けなさい」、多くの良い行いはあるでしょう。でもそれよりも、そのわざや行いを力づけ励ますものがある。主イエスが救い主としてまったく近くにいてくださる。わたしたちの平安を「神の平和」が守ってくださる。それを知ったら、喜ばずにおれません、祈らずにおれません
5 祈り
天におられる主イエスの父なる神様
今日もあなたを讃えます。でも世界を脅かしている感染病をさけて、わたしたちは各家庭の中で田原吉胡伝道所の主日礼拝をささげております。信仰の友の顔が見られないのは寂しいです。伝道所の会堂が虚ろなのは教会の姿にふさわしくありません。どうぞ、わたしたちが共に会堂で心をあわせて讃美し、祈り、聖書に学ぶことができるように、一刻も早く災いを去らせてください。人々が、そしてこの田原吉胡伝道所の一人一人が、その健康を、その生活を神様に守られますように。また世界中の人々と同様に、この地区や教区にある教会一つ一つを神様が顧み、憐れみ守りください。田原吉胡伝道所の周りの人々のためにも祈ります。大人も子どもも無事でありますように。
この祈りわたしたちの主イエス・キリストの名をつうじて祈ります。  アーメン
(各自加えてお祈りくださると幸いです)

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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