【中止/ご自宅用の礼拝内容を掲載しました】イースター礼拝 4月12日(日)
【中止】イースター礼拝は新型コロナウイルス拡大防止のため、中止とさせていただきます。ご自宅でも讃美歌を歌い、聖書を読み、お祈りし、礼拝を捧げることができます。下記に高岡先生がつくってくださったご自宅用の礼拝内容を掲載いたします。イエス様の復活、イースターをそれぞれのおかれた場所で感謝しましょう。
2020年4月12日 田原吉胡伝道所主日礼拝(家庭版)
1 主の祈り・讃美歌328「ハレルヤ」
2 聖書 ルカによる福音書24章1~12
3 説教 「復活は言葉の中に」
復活はわたしたちに語られた「言葉」の中にあります。その言葉を信じることから新しい命が始まります。神からの言葉、主イエスの言葉、聖書の言葉、そして隣人の言葉、どんな行き詰まった時にも、苦しい時にも、神はわたしたちに呼びかけ、「あなたと共にいる」と言われます。主イエスは「わたしが生きているのであなたがたも生きる」(ヨハネ14.19)と宣言されます。わたしたち人間は言葉をかけあって励ましあいます。その語られる言葉が、わたしたちの人生に復活を起こすのです。
十字架の日から三日も過ぎた週の初めの日のことでした。婦人たちは主イエスの「なきがら」にさらに死の整えをしようと、香料などをたずさえて主イエスの墓を訪れたのです。それは婦人たち自身もあれほど慕った主イエスの死を心に受け入れようとする、喪に服するための行いだったでしょう。でもいよいよ主の墓に足を踏み入れたとき婦人たちはわが眼を疑うような衝撃的光景に驚かざるをえませんでした。通常は岩のような石でがっちりと蓋がしてあるはずの墓はぽっかりと開かれ、あまつさえ肝心の主イエスの遺体がまったく見あたらなかったのです。婦人たちは頭を殴られたようなショックで、「途方に暮れて」しまいした。なぜなら亡くなられた主の体を香料で拭って綺麗にして、という段取りどころではなく、そこには死とはまったく違うことが起きていたからです。そして決定的だったのが、目のくらむような輝く衣を着た二人の人が現われ、こう言うではありませんか、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」あなたがたは何を場違いなことをしているのだ。ここは死者を探すところではない。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」主イエスの死をどうしようかとばかり思い続けていた婦人たちに力強い命の言葉が告げられました。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」とたんに婦人たちの心にあの「イエスの言葉」がよみがえりました。
それからはもう、婦人たちは香料やら喪に服するどころではありませんでした。おそらくそれまで一様に口を閉ざして沈黙していた彼らは堰を切ったように喋りだしました。もう黙ってなど居られなかったのです。空になった墓からはじかれるように帰った彼らは使徒たち十一人ばかりでなく残らず全員に、その一部始終を語らずにはおれなかったでしょう。一部始終、一切合切。それはただ空になった墓のことだけでなく、輝く衣を着た二人から伝えられて彼らの心に生き生きと立ち上がった主イエスの復活の言葉です。あの方は復活なさったのよ。墓にはもう、おられなかったのよ。思い出してみて。イエス様ご自身で「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と仰ってたじゃない。まるであの輝く衣の二人になったかのように婦人たちは使徒たちや他の皆に言って聞かせようとします。衣こそ輝いていませんでしたが、その言葉は輝いていたにちがいありません。
「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」。今さらながら、ようやくこの婦人たちの名前が出ます。この使徒たちに復活を伝える時に。それはこの婦人たちが主イエスの復活の現場目撃証人で間違いないし、もし主の復活が嘘だと思うんならこの婦人たちのところへ行って実際に聞くがいい、と福音書は言いたかったのでしょう。
嘘だと思うんなら。そう、誰でも最初はそう思う。見てください。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」「たわ言」とはとんでもない言いようではありませんか。主イエスの復活がたわ言?神の子の命がたわ言?絵に描いたような上から目線の言いようです。だから、「たわ言」と「信じなかった」がまるでペアのように組み合わさって出てきます。
注目すべきは、四つの福音書のどれを見ても、主イエスの復活は主イエスのおられない、主イエスの姿がない場面から始まっているということです。婦人たちが墓に着いたら、そこには復活して生きた主イエスがおられた、などとはどの福音書も伝えていません。
復活は言葉から始まります。復活は言葉を伝え、言葉を真実に信じることから起こるのです。神の愛を「たわ言」と見るだけなら、愛は始まらない。日々の人間どうしの言葉も同じです。言葉は目で見るモノでも品でもありません。目に見えない言葉で伝えられる真実を受けとめる時、愛が復活するでしょう。どうぞ、生活の中に言葉に込められた主イエスの復活の希望を信じましょう。
4 祈り
天におられる主イエスの父なる神様
今日わたしたち田原吉胡伝道所の一人一人は、社会に広まっている疫病を避けて、それぞれの家にて礼拝をささげております。どうぞ、別れて行っておりますこの各自の礼拝を神様がつなぎ合わせ、一つの礼拝となしてください。同じように共に礼拝が行えない教会のために神さまが助けてくださいますように。そして病気にかかった人々や不安に閉ざされている私たちの社会を救い、一刻も早くこの疫病が終わらせてください。
主イエスの復活の日に、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と天使たちが教えました。どうぞ一日一日の生活の中で主イエスの負われた受難と復活を覚えさせてください。家族との対話の中で、隣人社会のつながりの中で主の復活がきずなをつくってくださると信じます。
田原吉胡伝道所にかかわる不在の方や別帳の方々を覚えます。どうぞお一人お一人を主の愛をもってお守り導きください。
それぞれの場で祈るわたしたちの祈りと感謝をどうぞ一つにし、あなたの栄光があらわれますように。アーメン
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