説教 20250316「過去をゆるせば前進できる」
創世記43章1-34節
この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。
「もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。」
しかし、ユダは答えた。
「あの人は、『弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることは許さぬ』と、厳しく我々に言い渡したのです。もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。しかし、一緒に行かせてくださらないのなら、行くわけにはいきません。『弟が一緒でないかぎり、わたしの顔を見ることは許さぬ』と、あの人が我々に言ったのですから。」
「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」とイスラエルが言うと、彼らは答えた。
「あの人が、我々のことや家族のことについて、『お前たちの父親は、まだ生きているのか』とか、『お前たちには、まだほかに弟がいるのか』などと、しきりに尋ねるものですから、尋ねられるままに答えただけです。まさか、『弟を連れて来い』などと言われようとは思いも寄りませんでしたから。」
ユダは、父イスラエルに言った。
「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです。」
すると、父イスラエルは息子たちに言った。
「どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい。この土地の名産の品を袋に入れて、その人への贈り物として持って行くのだ。乳香と蜜を少し、樹脂と没薬、ピスタチオやアーモンドの実。それから、銀を二倍用意して行きなさい。袋の口に戻されていた銀も持って行ってお返しするのだ。たぶん何かの間違いだったのだろうから。では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」
説教
人は嫌いな人間を「人間」と思えなくなるようです。「あいつ等は悪魔だ、ナチスだ、鬼畜だ」、だから「極刑を求める」などと言って、罪ある者も同じ人間であることを無視してしまい、どうしても真の人間どうしの関わりにならないのです。娘を殺された親がいました。彼は犯人を憎しみに憎しみをかさねてやみませんでした。犯人を殺してやりたいとさえ思いました。しかしある日弁護士さんから加害者つまり娘を殺した犯人と話し合ってみないかという提案を受けました。始めはなんで娘を殺した殺害者なんかと顔を合わせ話さなくちゃならないかと腹が立ちましたが、犯人の顔に唾でも飛ばしてやろうという気もあってなんとなく加害者と立ち会ったそうです。弁護士さんたちの仲介や説明を挟みながらもなんとか対話が続いたそうです。でも「何で?」という憎しみにも似た思いをぶつけていくうちに、捕まった加害者の心情や境遇も知り様々な面から事件のいきさつを知って加害者への憎しみよりも彼の更生を願うようになったといいます。本当の裁きと更生は被害者も加害者も心を開き顔を向かい合わせて対話することではじめて生まれるのです。一方の側からだけ睨みつけるような敵対関係は相手を悪魔のように見てしまうものです。近年『対話的司法』とか『修復的司法』という司法解決が広まっています。それは「罪を憎んで人を憎まず」という考え方よりさらに、起きた事件を生身の被害者と加害者が向かい合い一緒に話し合って真の更生と裁きを模索しようとするものです。ほんとうのところ、人間というものは裁く側も裁かれる側も正しさや裁きを担うことに耐えられないものです。正義や審判の厳格さは人間には鋭すぎたり重すぎることもあります。裁く時も裁かれるときも人間が担うことができてこそ正しさは生かされるのではないでしょうか。わたしたちは、たとえ殺したいほど憎むべき加害者も、被害者と同じ重い境遇を担わねばならないことを知るならば、裁きという場にありつつなお赦すことができるのではないでしょうか。
創世記42章からの物語のあらましはエジプトに売られ後に大臣にまでなったヨセフが世界的な飢饉の折かつての兄弟たちと再会しついに父ヤコブ含めてイスラエルの一族をエジプトへと迎え入れるいきさつです。ただこれをよく読むと、聖書はそれを単純な歴史の描写のように記述するのではなく、ヨセフや兄弟たちそして父ヨセフのすべてが彼らの言うに言われぬ同じひとつの内面的傷や汚点のようなものすなわち罪をめぐって向き合わねばならない運命の流れをあらわしているかのようです。
再会の出来事をリードするのはヨセフです。ヨセフは食料を買いに来た者たちが自分の兄弟であることを最初に会見したときから見抜きます。そしてここで目につくのは、この再会の発端が飢饉あるいは飢餓だったことです。さらに、表向きは食料の飢餓が事の起こりでしたがもうひとつの重大な飢餓があることを思わざるをえません。まさにこれが物語のテーマとなっています。それは人間の飢餓です。それは大切な人がいないという存在の飢餓です。皆がそうでした。兄弟たちと父ヤコブにとってはヨセフがいない日々。ヨセフにとっては家族がない身の上。そればかりでなくこれからヨセフが仕掛ける策略も情け容赦なく人質を取って事を進めるものです。兄たちからその仲間のシメオンを人質に取り上げ、家にいる自分の弟ベニヤミンを連れて来させる。ベニヤミンを奪われたらもはや生きる希望さえ無くなってしまうのが父ヤコブです。こうしてここでの登場人物たちは全員、愛する人間を奪われる経験を味わわされるのです。この愛する人間が奪われてもはや自分のところにいないという境遇が全員に負わされるのです。そして創世記はヤコブや息子兄弟たちのこうした愛する者を喪失する出来事をとおして、彼らが自分の心からなしうる本当の和解を描こうとするのです。
心理学ことに精神分析の分野に「喪(悲哀)の作業」(mourning work)というテーマがあります。人が愛する人間を失った時、どのようにして立ち直っていくかの過程を表わす心の働きを言います。愛着のある人や依存している人物などの対象を失うという対象喪失によって喪の作業が始まります。これにも「驚き(エッ)」「否定(そんなのいや)」「絶望(もうだめか)」「離脱(しかたない)」などの段階があるといいますが、人間は悲哀をくぐりぬけることによって立ち直るというのです。
創世記では孤独のヨセフが兄たちに向かって自分と母を同じくする弟ベニヤミンを故郷の家から自分のところに連れてくることを要求しますが、それはまたかつてヨセフを失った父ヤコブにとってまたもや再びヨセフを失った時と同じ悲しみをもたらすものでしかありません。おまけに兄たちの一人シメオンも人質として奪われてしまうのです。ついに彼ら父ヤコブもヨセフも、兄たちも皆、「対象喪失」の中に置かれるのです。
しかし、突破口はやはり父ヤコブにありました。ベニヤミンを兄たちの手によってエジプトへと送り出すことを頑なに拒否するヤコブでしたが、最後には土地の名産や二倍の銀をエジプトの大臣への手土産に愛するベニヤミンを送り出すのです。「どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい。この土地の名産の品を袋に入れて、その人への贈り物として持って行くのだ。乳香と蜜を少し、樹脂と没薬、ピスタチオやアーモンドの実。それから、銀を二倍用意して行きなさい。袋の口に戻されていた銀も持って行ってお返しするのだ。たぶん何かの間違いだったのだろうから。では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」と言って要求に応じるのでした。これはまるで父ヤコブが愛しい子を手放す悲哀とそれによってヨセフが愛する弟ベニヤミンを得る喜びの感激がつながり相呼応しているように見えます。ヨセフはベニヤミンと対面するともはや冷静ではおれず、涙が溢れ出そうになったのでした。涙をぬぐい内心を隠して兄弟たちに対処するヨセフでしたが、もはやそれは対処というより暗黙の「大歓迎」の食事会となったのです。ヨセフは身の明かしをなおとどめるものの最も親しいベニヤミンと共にいることでいつしか昔ながらに兄弟を歳の順に卓に並ばせてしまい、彼らをいぶかしく思わせるほど驚かせてしまうのでした。
いよいよヨセフと兄弟たちはかつての悲しい出来事の前に共に集まり立とうとするところにまでやってきたのでした。そして彼らはかつて犯した罪の前に立ち心にわだかまっていた喪失感を吐露し告白するとき、彼らの出来事のいちばん中央にあったのが神の計画であることを知ることになるのです。
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