説教 20250720「人生は短くとも救いあり」 創世記47章1-12

聖書

 ヨセフはファラオのところへ行き、「わたしの父と兄弟たちが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えて、カナン地方からやって来て、今、ゴシェンの地におります」と報告した。そのときヨセフは、兄弟の中から五人を選んで、ファラオの前に連れて行った。ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。

 「お前たちの仕事は何か。」

 兄弟たちが、「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」と答え、更に続けてファラオに言った。

 「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」

 ファラオはヨセフに向かって言った。「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来たのだ。エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう。もし、一族の中に有能な者がいるなら、わたしの家畜の監督をさせるがよい。」

 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。

 「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」

 ヤコブは、別れの挨拶をして、ファラオの前から退出した。

 ヨセフはファラオが命じたように、父と兄弟たちの住まいを定め、エジプトの国に所有地を与えた。そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった。ヨセフはまた、父と兄弟たちと父の家族の者すべてを養い、扶養すべき者の数に従って食糧を与えた。

説教

 どうやら創世記は46章から焦点を再びヤコブに当てようとしているようです。かつてヨセフを失ったばかりか、今またかけがえのない末子のベニヤミンまでもエジプトに人質として奪われてしまったことで異境のエジプトへ行くことを嫌い、いっときは「悲嘆のうちに陰府(よみ)に下」らんとするほどの様相であった父ヤコブでした。しかし最愛の弟ベニヤミンに再会したヨセフが思い溢れるままに隠していた身の上を明かし父ヤコブと会うことを求めていると知った時、ヤコブは我が子ヨセフの生存に「気が遠くなる」ような動揺をおぼえつつ矢も楯もたまらず一目散にエジプトへと急ぐのでした。

 しかしその途中のベエルシェバに至った時、ヤコブにひとつの確信を抱かせる出来事が起こります。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。」それは彼を知る神の声でした。若い頃、兄を怖れ逃れ出た時に聞いたあの声、そして20年後ヤボクの川岸と帰り着いた故郷で聞いた声、その声が今再びこのヤコブに響き、神はいつまでもヤコブとその子孫と共にあり、導きやがて連れ戻すと誓うのです。

 そしてヤコブはついに我が子ヨセフと再会します。しかしあらためてふりかえればその再会は異境でした。エジプトの東端ゴシェンという地、故郷カナンではなく、神の約束の地ではない見知らぬ土地でした。まるで元々の人生からはずれ出た端っこ、まさに異境で二人は親子の絆を確かめ合うのです。ほんとうにヤコブの人生は神のふところにはなく異境の旅路の人生なのかと思わざるをえません。

 さていよいよヤコブは異境の最奥に立ち王であるファラオと向かい合います。ところでここでわたしたちはヤコブの一族とファラオの間にかわされるやりとりを重大な関心をもって見なければならないでしょう。不思議に思いませんか。なぜ聖書はエジプトの王を「ファラオ」という位(くらい)の名前で呼ぶだけで、個人名たとえばラメセスとかトトメスとは言わないでしょうか。なるほどヨセフの時代のエジプトは他民族ヒクソスの占領下で支配王の名前は判らなかったのかもしれません。とはいえ「侍従長ポティファル」の名まで記しているのですからエジプト王の個人名も書かれていいはずです。なぜ聖書はファラオの個人名を出さないか。それはファラオがこの世の支配神のような存在だからです。この世の神を個人名ラメセスとかで呼べばその神はそのラメセスの時代で終わってしまいます。まさにファラオとは永遠の神ヤハウェと対峙するような「この世の神」さらに言うと「この世の意志」そのものをあらわしているのです。それゆえにヤコブたちとこのファラオの対話は「対峙」であり「二つの人生の対決」なのです。ヤコブはこの世に生きざるをえない神の民としての運命と決意を告白するのです。

 最初に5人が立ちました。王は「仕事」を問います。彼らは「羊飼い」であることを明らかにします。「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」(3節)。「あなたの僕であるわたしども」、しかしそれは46章の最後にあるようにエジプトからすれば人間の対極にあるものでした。まさにエジプトというこの世での立ち位置の表明でした。この世に生きなければならない神の民の仮の姿です。そして何故という理由を続けて言うのです。「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください」(4節)。飢饉から逃れてここに寄留せざるをえない。しかしそれこそ神の民の存在証明の宣言です。「寄留」とはその国籍を持たぬということです。そこに生きても死に場所とはしないということです。それは願い事ではなく彼ら自身の決意であり、生き方の告白なのです。ファラオはこれを了とし受け入れます。彼らの決意を知ってか知らずか。託したエジプトをつかさどるヨセフが彼らの身内という理由により。

 さてもっとも興味深いのがヤコブとの対面です。意外なことが起こるのです。「ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた」(7節)のです。これは上下関係が逆さまです。祝福を与えるのはほんらい上位である王ファラオであるのが普通でしょう。ところがここに飢餓から逃れて助けを求めに来た難民、寄留者のヤコブのほうが王ファラオに祝福を与えるのです。「祝福」はお礼や感謝のことではありません。それは永遠の神の約束と導きを信じる神の民のこの世にたいする思いにほかならないのです。

 もうひとつ驚かせるのはファラオの言葉です。「あなたは何歳におなりですか」(8節)。あまり聖書には出て来ない会話です。まるでいつものわたしたちの日常会話のひとコマのようです。高齢者を見て「おいくつになられましたか」、幼児に「ボク、いくつになった?」とか。ただ今日わたしたちは失礼をおもんぱかってあまり人の年齢を訊いたりしませんしそれがエチケットと考えてます。ましてや女性には禁句です。しかしこのファラオの年齢を訊ねる言葉は日常的な挨拶でも外交辞令でもありません。老人に年齢を訊くことは旧約聖書ではひとつの賞賛の言葉と言ってよいのです。とくに高齢の人間にたいして年齢を訊ねることは賛辞となります。老人に「あなたの命が永らえますように」という言葉がありますがそれは「たくさん年をとられるように」という言い方にもなります。

 河合隼雄さんによると心理分析家のユングはアメリカのインディアンの生活を調査した時、そのインディアンの老人たちが非常に気高く毅然としていることに驚いたといいます。西洋の老人たちがいわゆる「老いぼれ」ていくのにたいして彼らはじつに悠然としている。これを彼らに訊ねたところ、彼らはこう言ったといいます。「自分たちは世界の屋根に住み、父である太陽の子として儀式などをとおして我らの父が天空を横切る手伝いをしてい、それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ」と。老人となっていよいよ家族や一族を超えて全世界のために祈るようになったというのです。原生の地に住む人間らしい思考や宗教観といえますが、これは聖書の信仰から見れば「隣人のために神に祈る」ことと通じるものがあるといえます。「孤老」とか「老いぼれ」とか蔑まれる現代社会の「老い」の見方とまったく反対です。『第二の性』という女性問題を著したボーボワールは63歳の時『老い』という本を書きました。彼女は言うのですが、どんな世界の未開社会だろうと文明社会だろうと発達すればするほど老人は棄てられていくというのです。日本でも楢山節考の話があり、年寄りは一定年齢になると山奥に棄てるべしという掟があったといいます。ボーボワールは人は老人になると心が澄んで落着きが出るというのは社会の押し付けの考えで現実は逆だといいます。むしろ現代社会では年をとると人間は頑固になりひがんだりやっかんだりするようになる。そんな老人を生みだしているのは老人を無用にしようとする社会の問題である、老人問題にこそ社会の質が現れるといいます。

 ファラオはヤコブが人生の旅路で格闘した風格を感じ取ったのでしょう。その風貌に滲み出た神への信仰をありありと感じとったにちがいありません。ファラオがもともと老人好きだったなどと創世記は言いません。ファラオは困難多い人生を過ぎ越した老ヤコブにおそらく永遠の香りを感じたと思います。ヤコブの返答にその意図を汲んだ言葉があります。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」(9節)。ヤコブは自分の人生を短く思いつつも彼の父祖たちの人生に並べます。アブラハムの人生は175歳、イサクは180歳でした。ヤコブはこの後生きて147歳まで生きます。しかしこの短い人生に注がれ続けた神の恵みにファラオは打たれたのでした。その神の恵みの香りを漂わせるヤコブの「年齢」に。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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