説教 20241006マタイによる福音書15章21~28節 「 神の心をも動かす信仰 」
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
説教
さて場所が強調されます。「イエスはそこをたち」の「そこ」とはどこでしょう。これ以前の最後に出る土地はゲネサレトです。それはガリラヤ湖の北西のカファルナウムの近くであったようです。マタイ福音書4章12節はこう書いています。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」
「異邦人の」や「暗闇」と言われているようにガリラヤはイスラエルの中心地エルサレムから遥か離れた辺境です。イスラエルのギリギリの北端です。「そこ」を出ればもう本当の異境の地です。
イエスはまさに異境へと出たのでした。それは何故? それはこの直前のファリサイ派や律法学者たちからの非難や批判を避けるためでした。「食事前の手洗い」をしないイエスの弟子たちをファリサイ派たちは責めたのです。しかしそれはイエスにとって神のみ心が虚しくされるような論議だったのです。
その異境。そこは「ティルスとシドンの地方」、ガリラヤから百キロメートルも北方の地でした。そこに「この地方にうまれたカナンの女」が登場しまさしく異境的な様相です。このカナンの女はマルコによる福音書ではギリシア人と書かれています。ところがこの異境の女の口から驚くような言葉が出てきたのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」そうですわたしたちもよく知る「キリエ、エレーソン」、「主よ憐れみたまえ」という信仰告白の言葉でした。それも耳をつんざくように大きくそして何度も何度もくりかえして異郷の地に響きわたるほどに叫ぶのでした。不思議な情景です。ユダヤ人ではないギリシア系の人間が「主よ」と呼び「ダビデの子よ」とイスラエルの王の名を叫ぶ。ここにはじつに大きなギャップが浮かび上がっているのです。まるで信仰とはかけ離れたような人間が信仰告白をしています。そして燃えるように祈り叫び続けます。
しかしそれは確かに大きなギャップであり、越えられないものでした。イエスの弟子たちは彼女を追い払うように願い、イエスも「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とご自分が向かうべき使命の目標すなわち見棄てられ苦しむユダヤの人々を外そうとはしませんでした。それはイエスが冷酷無情な方のように見えますが、イエスのうちには数えきれないユダヤの病む人や貧しい人々を押しのけることが出来ない思いがあったのです。だから目の前にひざまずく女にこう言ったのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」
ところがここから岩石のように一歩も引き下がらない彼女の告白に一段と気迫がこもるのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのではありませんか。」どこか啖呵を切るようにも聞こえるその言葉は言い切るのです、「主よ、あなたの民が羊なら、わたしは犬です。でもその犬も同じ屋根に住み、たといおこぼれでも、同じパンを食べるではないですか。その犬もまたあなたの民と同じ家族ではないですか。」ここはツィルスまたシドン。神の地から遥か遠い異境の寂しい地、そこにわたしはいます。でもそこに、主よ、あなたはおいでになられた。それはわたしたちを憐れむためでなくて、それ以外の何のためでしょうか。異境にあるわたしもあなたを救い主と信じます。
信仰とは、言い切れば、信じる神からたとい無理やりと思えてもひんしゅくを買うと見られても、憐れみを、救いを、恵みをこそぎ取り、ねじり取るようなことなのです。神がわたしを救う方と信じていればこそ、すべてをかなぐり捨てても神の前に立ちふさがり、神に叫びつづけ、神に激しく求めることです。信じていればこそ神にぶつかり、神をさえ動かすのです。わたしも犬だ。あなたのお飼いになる犬であり、家族です。
そしてイエスは言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
先日テレビで保護犬の世話をしている人の働きが紹介されていました。最近は終戦後とは違って野良犬はほぼいないそうです。多くは棄て犬です。その大半はおそらく立派な血統書がついていたような由緒ある種類の犬たちつまり元々飼い犬、ペットだった犬たちで、棄てられ行き場なくさ迷っているそうです。その方が保護している一匹のコーギー犬は癌を患っておりそれは脳にまで転移してとうとう、死んでしまいました。その人がこう言っていた言葉が強く心に残っています。「この子は家族にしてもらえなかったんですね。ただの縫いグルミのようで手間がかからないうちはいいけど、病気になって介抱してやらなくちゃならなくなったら面倒になってポイっと捨てられちゃったんですね」。律法を守れないからと罪びと呼ばわりされたユダヤの民衆。異境の人間だからと受け入れられず差別された人々。
獰猛な狼から分かれた犬はいつか人間のゴミから餌をあさり人間に近づくようになりやがて人間と共に生き、狩猟や運搬さらに遊び相手をするようになったと言います。すでに紀元前1万1千年のイスラエルの遺跡には犬の骨が女性の遺体の横に寝そべるように葬られていたと言います。
わたしたちの生きる場は異境です。心も寂しくすさんで生きる目標もおぼつかない人生です。でもこの異境にイエスは来られます。ここを憐れみの場とするために。異境を信仰と告白の場とするために。神は不真理を真理と為さしめる。罪人を義人とされる。死を復活の場とされる。いまここで叫ばなければ主は通り過ぎ行かれてしまいます。信じるイエスに心の底から呼びましょう。求めましょう。イエスに立ちふさがるほど祈りをイエスの前に投げ出しましょう。
0コメント