説教 20221204 ルカによる福音書1章26-38節 「救いの命、人に生まれる」

 ― 永遠の命がこの人生にはじまる ―

 天使ガブリエルがマリアのところに来て神の言葉を伝えました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

 この言葉がクリスマスの始まりでした。それはこういう意味です。「マリア、もはやあなたは意味のある人生を生きることが出来る。なぜなら神があなたの人生を選んでくださったから」。あなたはもう人生をさまようことはないだろう。神があなたの手を捉えられたから。しかしマリア、あなたは自分が何かにならねばと思う必要はない。神があなたのためにご自分を変えられたのだ。神はすでにあなたのうちでご自身の救いのわざを始められた。

 クリスマスとは神が始められた永遠の命、新しい生き方をわたし自身の中に発見することです。その時、伝えられるメッセージによってもうわたしがすでに新しく変えられた自分であることに出会うことです。

 でも聖書を見るとクリスマスは淀みなく時々刻々、着実に始まっていくのです。永遠の神の口から「さあ始めよう」と発せられた人間の救いの計画が、まるで有能なディレクターともいえる天使の語りかけによって無力にひしがれる人間までも救いの人生へと動かしてゆくのです。人間たちが面喰い戸惑おうとも構うことなくひたすら神は天使をとおしてクリスマスを進めていきます。

 天使の名は「ガブリエル」。訳せば「神の言葉の宣告者」といいます。このルカの福音書の冒頭から登場し人間を神の永遠の救いの中へと否応なく巻き込んでいきます。先ずは祭司ザカリヤに現れて口答えする彼の口を塞いでまでこの老夫婦の人生そのものを神の新しい救いの計画へと導きます。そして彼らは主イエスの先駆けとなる洗礼者ヨハネを産むことになるのでした。

 さらに天使ガブリエルは一人のまだ未婚の娘であるマリアの前に現れて突然に「おめでとう」と祝福するのです。マリアは戸惑いました。ましてや「あなたは神の子の母となって生きるのだよ。そしてその子は偉大になり永遠に人々を支配する」とはマリアにとってあまりにも不可解で恐ろしくなるほどでしょう。マリアはまるで神からのメッセージを打ち消すように返さざるをえませんでした。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と。

 天使が祭司ザカリアとマリアに神の救いの計画を告げたことは深い意味があります。祭司ザカリアの口が閉ざされたことは律法の言葉がふさがれたことと言えます。神は律法の掟によって救われるのではありません。おとめマリアに神の子の命が預けられたことは「シオンの娘」と呼ばれるイスラエルの人々に救いの到来が実現したことを表すのです。預言者イザヤは4章4節で「主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い」と言います。特徴的なことはザカリアの妻老エリサベツも未婚のマリアも子を産むことには無関係な女性たちであることです。それはイザヤ書54章1節の神から祝福される「不妊の女」を表すのでしょう。

 しかしここに人間の真実の姿が如実に現れます。マリアは理性を超えたメッセージに答えられなかっただけではなく、心のうちで神の救いに逆らい拒否するのです。応答しようとしません。クリスマスすなわち神の救い主の登場はまさに老境に達したザカリアであれまだ若いマリアであれ、彼らにとって受け入れ難い状況を生み出すものだったのでした。

 だからこう考えられるのではないでしょうか。じつは人間は本性では意味のある人生を生きたがってはいないと。またあえて言えば、自分が真実に願い望む人生を避けて生きているのだと。ちょうど精神医学者フロイトが「死の本能」という考えで示したように生きている反面じっさいは心の隠れたところで死にたがっている。幸福と喜びを手にできる時にそれを手離し不幸せを享受しようとしてしまう。社会に目を向ければ、一致よりも分裂に走り、自由であるよりも隷従することを選ぼうとします。生かすよりも殺し合い、愛するより憎むことを美徳と考える。それはまさに「原罪」でしょう。パウロが「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆いたものに他なりません。ではクリスマスはこのような罪をわたしたちに突き付けるものなのでしょうか。

 そうではありません。クリスマスは罪よりももっと大きなもの強いものがすでに神によって起き、始められたことに気付き、驚き、讃嘆する出来事なのです。ルカのクリスマスの物語を読むとザカリアにもマリアにもあることが共通しています。それは彼らは共に、生きている自分のありのままの肉体に下された神の新しいみわざをついに受け入れ賛美していくのです。

 マリアは高齢のエリサベツが神のみわざによってもう六ケ月の身重となって預言者を胎に宿している事実を知ります。そして自分もまた救いを始める神のみわざの鼓動を自身の体の胎動へと受けとめようとするのです。「わたしのために神の救いのみわざが起きたのだ。動けないわたしに先立って神は世界をわたしにふさわしいように造られた。このわたしがまったく新しく自由に生きられる現実へと変えられた」と。

 「お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアはただ承服するだけでした。それがマリアの信仰でした。自分の前に向かい合い立たれる神と自由に応答しあって生きることを選んだのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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