説教 20221120 マタイによる福音書9章9-13節 「その声に心は立ち上がる」

― 罪人を生かす憐れみ ―

 まるで人生を塞(ふさ)がれた人がいました。その名はマタイ。彼は本来人生の居るべきところではないところに置かれてしまっていました。それは収税所、ユダヤ人にとって憎いローマ帝国の代理徴税所でした。まるで言いがかりをつけるように通行税や物品税、商業税をできる限り多く搾り取り世間から忌み嫌われた場所でした。多くの場合、収税人は前科者や孤児など社会から不適格者とされ、人々から「罪人」とまで罵られたのでした。どうしてマタイはここに澱むように居座り込んでいたのでしょう。

 じつはこのマタイ、まさにこの書が「マタイによる」と名付けられている通り、この福音書の記者本人と伝えられています。そしてマタイは主イエス呼びかけられ、弟子となってそれに従ったのでした。この時、イエスは「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけ」たというのです。イエスは初めから彼の名を知っているわけではなかったでしょう。なのに何かこの人物に感じられたように声をかけたのです。

 誰かから声をかけられる時、果たして何かが起きるような気がします。その誰かはこのわたしを知ったから。大概の人々は収税所に近寄らず、彼を見ないように避けて行く。ところがその人はマタイに目を止め、近づいては声をかけたのでした。わたしたちも独りぽつねんとしている時、誰かが話しかけてくれたりしたら、心が躍ります。そればかりでなくイエスから「わたしに従いなさい」という驚くような言葉がかけられたのです。「わたしに従いなさい」、それは「わたしと一緒に来ないか」「離れず付いてこないか」という「招き」だったのでした。その後を見るとイエスはそのマタイの家に来て一緒に食事をされます。おそらくどんなにかマタイは心を開いてイエスの呼びかけを喜び、その「招き」を受けたことでしょう。

 ここである推察をせざるをえません。どうしてマタイはこんなにもすぐにイエスに心開いたのでしょう。この「招き」の記述は他のマルコ2章、ルカ6章の両福音書にもあります。ただこの二つとも彼をマタイでなく「レビ」と呼びます。マルコはより詳しく「アルファイの子レビ」と書きます。世間から「罪人」呼ばわりされている人間をどうして氏素性まで書くのでしょう。それにこの「レビ」という名前です。これはまさに由緒あるユダヤ古来の十二部族中のひとつの名で、なかでも「レビ族」はユダヤ社会の信仰と礼拝のために働く祭司の役割を受け持っていたのでした。

 さらにマタイがこの「マタイによる福音書」の記者であり、マタイ福音書はその内容がじつに旧約聖書に造詣が深く、ユダヤ人系のキリスト教信者に解るように書かれていることを考えますと、この「レビ」という名のマタイはひょっとすると出身がユダヤのレビ族系の祭司家系ではなかったかと想像されるのです。マタイつまりレビは元々祭司となるべき人だった。

 では何故由緒正しいマタイは落ちぶれて収税人となってしまったのでしょう。そこで気になる言葉があります。マタイ福音書でもマルコでもルカでも共通して出てくる「座っている」という言葉です。言語で「カテーマイ」ですが、「じっと座る、動かないで座っている、根が生えたように座り込む」です。ちょっと気になります。いやでも動かないでいる、いや動けないでいる感じがします。動けない、ひょっとすると身体が足腰が不自由ではなかったか、障害を負っていたのではと想像するのです。それゆえに本来の栄光ある祭司の仕事からはね除けられていたとも。

 何故なら旧約聖書では障害のある人は神に仕える務めが禁じられていたからです。旧約レビ記21章17節以下にこうあるのです。「あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、手足の折れた者、背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など、祭司アロンの子孫のうちで、以上の障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない」。そこで想像します。マタイはなにか障害のゆえにレビ族としての将来を閉ざされ、ついに収税所に座り込まねばならなかったのです。それは本来のマタイとは言えない生き方でした。なんの意味も見いだせない生き方でした。

 でも、この苦悩は、孤独の闇は、マタイが背負った絶望はわたしたち自身の苦悩、闇、絶望そのものです。「おまえは失格者!おまえは罪人!」の声はわたしたちにこそ聞こえてきます。マタイと同じようにわたしたちもへたり座り込んでいます。

 しかしイエスは近づき「彼が座っているのを見て」「声をかけて」「わたしに従ってきなさい」と言われます。イエスは孤独をかき消し、陰りを払いのけ、招きの光を差し込まれます。

 しかしイエスはこのとき耳を疑うような言葉を言われます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 罪人こそわたしの友とイエスは言うのです。これこそイエスの真骨頂です。それは罪人は「憐れみ」を知っているからです。なぜなら憐れみは罪人を救うが、いけにえは罪人を裁くからです。罪人は存在理由を失っています。自分では生きることができません。イエスは価値なき罪人の価値となられます。力なき者の力へと身を低めます。弱き罪人の人生にイエスの十字架の命が現れるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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