説教 20220515 創世記18章1~15節「愚かなるゆえ、我は信ず」
― 神の全能、あなたのうちにあり ―
いよいよとなると「ダメだ!」となってしまうことはありませんか。仲が悪かった人といつか仲直りの言葉を伝えようとしたがとうとうできなかった。弱い人を助けてあげたいと思っていた。でもいざとなると声をかけることができなかった。
アブラハムはいつも神から祝福され、必ず自分の子どもが与えられやがて大いなる民族の父となると約束されていました。それを信じて旅立ち、それを頼りにアブラハムは約束の地に住んだのでした。ところがその約束が実際に身に起こらんとする時アブラハムは笑ってしまったのです。「まさか!この年老いた身に」と。神の祝福と約束が現実に近づくほど信じなくなってしまうのです。
この老夫婦に起こる長子出産の物語は「神の約束の信じ難さと人の笑い」に焦点を当てられていきます。17章17節では「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか(何を馬鹿なことをこの神は言ってるんだろう)」とアブラハムが笑い、この18章では妻サラが「笑い」ます。二人とも神の約束を愚かなとばかり笑う人間です。神の祝福と約束が身近に迫り現実に近づくほど笑うのです。
聖書の中では「笑う」という言葉はあまり楽しいものではありません。「敵があざ笑う」や「異邦人が嘲笑する」とか「隣人が物笑いの種にする」などが詩編や箴言によく登場します。行きつけば神までがあざ笑います。
「天を王座とする方は笑い
主は彼らを嘲り憤って、恐怖に落とし
怒って、彼らに宣言される」(詩編1編4,5節)
それにもまして心を刺すのは十字架上のイエス・キリストに
「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」の笑いではないでしょうか。
笑いは神に対する不信仰となってあらわれます。さらに言えば笑いの中には相手を憎んだり攻撃しようとする怒りの感情が潜んでいるとも思えます。「なんて馬鹿なことを」!
サラのひそかな笑いを神の使いは見逃しませんでした。サラを問い詰めて言ったのです。「なぜ笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と。
ここに笑いが凍りつきました。同時に恐れによって「馬鹿々々しい、そんなことはあるはずがない」という通念が砕かれます。それは「主に不可能なことがあろうか」という神の全能への恐れでした。それは新約聖書で結婚前のマリアが処女受胎を受け入れた時にもあった「神の全能」でした。
古くから信仰の定義として「愚かなるゆえに、我は信ず」と伝えられています。神の救いまた愛や恵みがとうてい信じ難く愚かで疑わしいとしか見えない時に自分の判断をすべて棄てて受けとめること、これが信仰だと。それは事実を神に委ねることと言えます。現実もまた信じるべきものなのです。多くの現実にくよくよし不可能の中に眠り込むわたしたちに神の全能が立ちはだかるのです。
神の全能とは神が勝手にあれもこれもできてしまうことではありません。「神の全能」とは「あなたに神のみわざが実現する」ことなのです。いや、あなたが神のみわざを実現することなのです。アブラハムよ、あなたはその子を生まなければならない、そして生むことができる。
それゆえ面白いことにこの物語は人間の「笑い」を完全に変貌させます。。21章には約束のとおりアブラハムとサラに子どもが生まれ「イサク(笑い)」と名づけ、言うのでした。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」。ここで笑いはついに「感謝」となったのです。あの「嘲り」や「不信仰」だった笑いが、事実も評価も神の全能に委ねた時「感謝」となり心からの「喜び」となったのです。
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