説教 20220501 マタイによる福音書8章1~4節「清められて生きなさい」

 ― 我が意(こころ)なり、潔くなれ ―

 神に祈る最上の特等席があります。それは病気です。あるいは絶望といえるでしょう。悲しみ、死、貧困、不安、わたしたちがどうあがいても誰からの助けもない孤独に人生から消え去りそうな時、そこに神への祈りの特上の席が置かれているのです。

 一人のハンセン病者が山から下りられたイエスのもとにやって来ました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。彼はそう言うなり地面に伏してイエスに哀願するのでした。

 ハンセン病かつて「ライ病」と呼ばれ不治の病として世界のどこででも先の二十世紀に至るまで忌み嫌われたこの病を負ったこの人もこのユダヤ社会で想像を絶する差別と迫害を受け人も寄り付かない「死の谷」で絶望と孤独にさいなまれて生きていました。イエスがあの山上でされた数々の説教はそんな病を負った人々に語られたものでした。それを物語るように山での説教を挟んで前にも後にもイエスが多くの人を癒されたことが書いてあります。そして身を乗り出して聞く群衆の中に身を隠して紛れていたこの人は誰よりも真っ先にやってきたのでした。

 ハンセン病者と気づき一斉に口を覆い遠ざかる人々から身をこごめ、注がれる侮蔑と忌避の視線を振り切って彼はイエスの前に癒しを願い出て言うのでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。でもちょっと考えるとこの言葉に何か違いを感じざるをえません。わたしも最近甲状腺の病気で手術を受けましたが、最初にお医者さんにかけた言葉は「治るもんでしょうか」でした。つまり「先生、治せますか」という大変不遜な言い方だったわけです。この人はそう言いません。わたしを清くすることが「おできになります」と。

 宗教改革者は言います。「かなえられないかもと疑いながら祈るのは祈りではない」と。「神は必ず応えてくださる」と確信して祈ることこそ真の祈りであると。確かにこの人はそう求めました。イエスは自分を絶対に癒してくださる方だと確信して願い出たのでした。

 じつはこの物語の出来事は一般的には「癒し」の話と言われますが深いところでは「病気とその癒し」がテーマではありません。それよりも祈りの本質さらには神と人間との真実のやりとり、人格として心から向かい合う関係が描かれているのです。「御心ならば」と彼は言います。この御心とは相手を持ち上げるための丁寧語ではありません。そうではなく「強固なほどの意志」また「何があっても最後まで貫きとおす熱望ややり切る決断」という言葉です。謂わば「神の権威にかけた決断」です。例えばかつての国王の決定や決断あるいは大統領のが出すドクトリンのような絶対的意志を表します。ハンセン病のこの人はそのような動かすことのできない権威によって癒すイエスのもとへ進み出たのです。いや馳せ参じたと言ってもよいでしょう。山上の最後に見えたイエスの「権威ある者」の姿が彼を招き寄せたのです。

 そしてこれに応じたイエスは進み出たこの人の確信に満ちた祈りの思いをあますことなく読み取ったのでした。「手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ」たのです。誰からも人間として触れられることのなかったハンセン病者はついにどこまでも自分に向かい合おうとされる人格の存在に出会ったのです。

 この「よろしい」も単純な「許可」のことではありません。「いいよ」というような気軽さでもありません。それは祈り出た彼の言葉に対して真っすぐに返されるイエスの人格の応答そのものでした。文語訳聖書はこう訳しました、「我が意(こころ)なり、潔くなれ」。すなわち「まさしくわたしの望みだ。清まれ」と。つまり同じ言葉なのです。祈り求めた言葉も真実にイエスに向き合い、返された言葉も真実に彼に向かい合うのです。

 主の祈りにあります。「御心の天になるように地にもなさせたまえ」。わたしはこれを言い換えたいと思います。「神よ、あなたが天に生きておられるまま、この地にも生きておられます」。だからわたしも生きます。神のみ心が天に欠けるところがないなら、今このわたしのすべてにも欠けることがありません。わたしが病だろうと悲しみだろうと絶望だろうと、イエスはわたしの中に生きてくださる。ヨハネ福音書で言われた「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」の言葉を思います。

 イエスが言われると「たちまち、清くなった」と言います。そして「清い清くない」を判定する祭司のところへ行って、神にささげものができる存在となった証を立てなさいと言われるのでした。それはなによりもまず、病であろうが絶望であろうがその場に立ち上がる人間となったことの証明です。愛をかけて告げられるイエスの言葉「清まれ」に生きる証明なのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

ようこそ、田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)のホームページへ。