説教 20220403マタイによる福音書26章36~46節「瓦礫の中で祈る者」
― わたしと一緒に目を覚ましていなさい ―
とうとうその日がやって来ました。主イエスがシモンら弟子たちに最初に告げられて以来、受難の予告は三度にわたってなされ、ついに十字架の死を受けられる前日となりました。弟子たちの足を洗い最後の晩餐をされた後、主は夜の闇を弟子たちと共に「ゲツセマネ」と呼ばれていた園へと向かわれたのでした。ゲツセマネとは「油搾り」の意味で実ったオリーブから油を搾り取る作業園でした。そこで油ならぬほとばしる血潮のような祈りを主イエスがなされるとは弟子たちの誰も想像しませんでした。
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」。「座って」とは「休んで」というのでなく「かがんで」という意味です。「控えていなさい」ともいえるでしょう。
そしてシモンとヨハネ、ヤコブの三人だけを伴い行かれたとき、主イエスはにわかに「悲しみもだえ始められた」のでした。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。三人にそう命じた主は独りさらに進みついに「うつ伏せになり、祈って言われた」のでした。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。
何を「死ぬばかりに悲しい」と主は言われたのでしょう。力無くくずおれたその「うつ伏せ」の姿は古くより罪人が処刑の宣告を受ける姿でした。冷たい石畳にうち伏せられ厳しい刑を宣告される姿です。あたかも神からの刑の宣告を受ける者のように主イエスはかがみこまざるをえませんでした。
イエスは祈られます、「できることなら、この杯を」と。でも思い当たりませんか。祈られるその言葉はどこかまるでわたしたちが日々の中で弱々しく呟いている悲痛な叫びのように聞こえて心を震わせないでしょうか。「もう耐えられません。なんとかならないのですか、もう終わってください」。それは惨めささえ感じさせる祈りです。杯とは詩篇などでは神から下され避けることのできない運命を現わします。わたしたちが病や死から逃げられないその同じ悲しみの瓦礫の中に主イエスは立たれたのでした。
受難の極みは十字架といえましょう。そしてそれに至る裁判や鞭打ちそしてゴルゴタの丘までの悲しみの道行きも。それは確かに神の子イエスの受難の中心といえます。しかしわたしはこのゲツセマネの祈りもまた疑いようもない主のもっとも悲痛なイエスの受難の姿に他ならないと思うのです。こんな弱々しい姿のキリスト、こんな惨めな泣き言のような祈り。いえ、それこそ神の子イエスがわたしたち人間と変わりなくあろうとされた真実の姿ではないでしょうか。そして地面にかがみこむことは悲しみにうち伏すイエスを映し出すことでしょう。
しかし今、世界から耳をつんざくほどの悲しみの声が聞こえてきます。戦争で殺され、壊され、奪われた人々の嘆きが。疫病で職や命を失くした人々の無念が。でもイエスキリストはまさに同じそのただ中のゲツセマネに悲しまれました。
しかしイエスは「ここに座っていなさい」と命じられると同時にもう一つのことを弟子たちに命じられました。
それは「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」でした。そしてこれこそが主イエスの一生にわたるわたしたちへのメッセージとなります。イエスはつねに「人と共にある方」でした。誕生のとき「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ばれ、昇天のとき「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた主です。この36節にも「弟子たちと一緒に」、39節「わたしと共に目を覚まし」、そして同じく40節にも。
それは祈りのことです。「目を覚まして祈っていなさい」とイエスは言われました。イエスが言われた目を覚ますとは「慧眼」をもつこととか冴えざえと何かを「洞察」するということではありません。「誘惑に陥らぬよう」と言われます。知恵を身につけて何かが判った気になる、それが誘惑です。
「目を覚ます」とはキリストに目を向けて祈ることと言えましょう。キリストはわたしたちと共に悲しんで受難されます。わたしたちと変わりなく叫び祈って十字架に向かわれます。わたしたちのすべての苦しみを負って神に従われます。目を覚まして祈るならわたしたちもイエスに従って行けま
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