説教 20220220創世記17章1~14節「心を開いて神に向かおう」
ー 応答するとき自由になる ー
「所属意識」ということが言われます。学校や会社に所属する、何かの集団の一員となる、ある国の国民であるなどのことをいうのでしょう。そういうときその集団にはよくバッジとか徽章といったシンボルがあって、例えば「花」とか「山」なんかのマークやデザインを見ては「ああこの学校は努力を大切にするんだ」とか「この会社は進歩を目指すんだ」などとある共通のイメージをわたしたちに持たせます。ただそれが平和なイメージであったらいいのですが、威圧的だったり攻撃的なものであったらどうなることでしょう。
例えば「鉤(カギ)十字」が所属集団のシンボルだと言われたらどんな気持ちになるでしょうか。今日でこそ暗い気持ちになりますが、じつはこの鉤十字マーク「ハーケンクロイツ」が掲げられた時代の人々はまるで夢に酔いしれたように自国ドイツの民族的高揚にのめりこんでいきました。世界に冠たる優秀民族ドイツそして総統ヒトラーの熱血指導。人々は歓喜にあふれて国家に忠誠を誓い他国人を敵視し軽蔑し蹂躙しました。エーリッヒフロムという学者はそれをドイツ国民はまるで自分の自由から一目散に逃げるようで、すべてのドイツ人が独裁者の奴隷になることを感涙あふれて歓迎したと評したのでした。同じことが同じ時代日本でも「誰それ陛下万歳」という翼賛体制で起こっていました。でもどうもそれは過去のことではなくこの現代世界のある国々にあったり、そんな奴隷志望の風潮は今のわたしたちの社会にさえあるといえないでしょうか。
本日の創世記17章冒頭の記事は「割礼」のことが書かれています。割礼はユダヤ教への帰依の「しるし」といえます。キリスト教でいえば「洗礼」という人もいます。ただ洗礼は内面的には変わりますが身体的にはなんの変化もありません。ところが割礼は男性の場合ですが身体の局部にメスを入れて身体的特徴を残します。先のナチス時代にドイツ兵はユダヤ人を見つけ出そうとして嫌疑者を公衆の前で下着を下ろさせて調べたといいます。
まさに割礼は身体に刻まれたユダヤ民族の「所属証明」といえますが、その出発点となったのがこの聖書の記事です。民俗学的には石器時代からの中東やアフリカの発祥と言われ元々は衛生上に加えて宗教上の風習でした。しかしユダヤでは割礼はその国家形成や維持と関連づけられ重要な意味が与えられました。ユダヤ民族の開祖というべきアブラハムがやがて星の数にも勝る聖なる選民の先駆けとして割礼を受けることを神に命じられました。割礼が神の民ユダヤ人の「しるし」となった瞬間です。「父アブラハムがしたように以後すべてのユダヤ人たるもの割礼すべし」。ただやはりこの物語がどのような状況の下で書かれたかを見なければなりません。それはこの創世記が書かれた時代はユダヤ民族が存亡の危機にあり国家消滅の危険に直面していたからでした。敵国アッシリアに滅ぼされ国土国民の大半を失い、12部族のうち残されたユダ部族だけでユダヤ国家イスラエルを守らねばならなかったからでした。でもそれがため「割礼」は国家事業的な色合いを帯び、宗教国家の行事のように形骸化していきました。割礼のしるしさえあれば自分は神の選民に所属している。割礼があるから自分は神と契約した優れた人間である、と。
サンテグジュペリの『星の王子様』の中で王子様が街灯夫のいる星に来ますと男が忙しそうに街のガス灯に火を点したり消したりを繰り返しています。王子が「どうして点けたり消したりしているの」と聞くと街灯夫は言います「命令だからさ」。真の意味も考えず命令というだけで彼は訳もなく一生懸命に点けたり消したりを繰り返すだけですがそれで充実した仕事をしていると思っています。これこそ後世、起きた割礼の形骸化でした。何のために割礼という「しるし」があるのかを問わずにたんに「しるし」にすぎない割礼をもって他国人に対して優越感に浸り選民と自称し、じつは自由を放棄してかたくなに自分を奴隷化しようとしているのです。
真の「割礼」とは何でしょう。それは神の愛によってすべての罪と恐れを取り払われたことです。そして神のために自由に従っていく生き方のことです。わたしたちを愛する神に罪を赦されて一片の恐れもなく自由に従う心開かれたしるしです。ローマの信徒への手紙4章11節でパウロは言っています。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」。それは創世記15章6節に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」書いてあるとおりです。真の割礼とはわたしたちが救い主イエスの愛によってどんな罪や恐れも取り除かれるゆえに、どんな罪の苦境に瀕しても恐れることなく神に従っていける生き方の姿を言うのです。割礼は「信仰によって義とされた証し」です。これを言わなければ割礼は無意味です。神は言われます「わたしはそのままのあなたを救った。あなたはそれでいい、そのままで生きていける。そのままでわたしと共にある」と言われます。それが義です。割礼は神のこの愛を受け入れた信じる心の結果です。
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