説教 20220130マタイによる福音書7章1~12節

「隣人を裁くな、神に求めよ」 

 わたしたち人間の心はたいへん悲しい特徴を持っています。それは自分の幸福を他人の不幸と比べて満足するというものです。「他人の不幸は蜜の味」と言います。

主イエスが「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言われる時、そのようなことを言われているのではないでしょうか。「人を裁く」とは「人の上に立って、上から目線で非難したり、戒めたりする」ことです。そんな「人の上に立った」時、わたしたちは何か自分が偉くなったような気になります。

 ある学者が人間の感情を6つに分けました。1幸福感 2驚き 3恐れ 4怒り5嫌悪 6軽蔑、と。きれいに分類された感情ですが別の学者がある実験をしたら面白い結果が現われました。それは6つの感情の顔の写真を人々に分けさせたらなんと1幸福感の表情と6軽蔑の表情を取り違える人々が多くいたのです。つまり「嬉しそうな幸福の表情」は「他人の愚かさを軽蔑する表情」となかなか区別できなかったのです。最近「ヘイトスピーチ」という言葉がよく言われます。「他人の人格を蹴落とす悪口雑言」というものでしょう。相手の言い分には一切耳を傾けずその人格も尊厳も全部を否定します。そのためインターネット上の発言などでの「炎上」という事件で見るように人格攻撃によって死にさえ追い込まれる人もいます。悲しいことにこうした「聞く耳をもたない攻撃者」は今日では社会の指導層や国家の権力ある人の間にも見られるようになりました。いったいすべての人が差別なく繋がり合う社会はどうしたら築き合えるでしょうか。

主イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言われます。わたしたちはさらに「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」という言葉にショックを受けます。他人のちょッとした過ちには「まなじり」をとがらせて敏感に責め立てるのに、自分の犯したとんでもない罪の大きさに全然気づいていないぞ、と言われるのです。目の中に「おが屑」くらい入ることはあるでしょう。でも自分のこととなると、ありえないほどですが「丸太が目の中にある」のに気が付かないのがわたしたちです。神から与えられた言葉や知恵をわたしたちは「汚れた犬や豚」のようになって他人を貶めるために使ってよいでしょうか。言葉や知恵を身に着けた「汚れた犬や豚」はわたしたち自身に向き直って逆襲し、噛みついてくると言われます。

そんなわたしたちに主イエスは言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。これは素晴らしい言葉です。

ここで耳にしっかりと残る言葉が「そうすれば」という主イエスの言い方です。「そうせよ、もししなければ・・・」というのではなく「それで、それだけで・・・」という「ちゃあんと」とか「ぜったいに」と言う意味です。「求めなさい。それだけでちゃんと、与えられる」と言われるのです。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」のです。なぜなら神は、わたしたちの求めの声に全神経を研ぎ澄ますように耳を傾けておられる方だからです。ちょうど自分の子供の状態にとても敏感な父母のように。だから主イエスはこう言われるのでしょう。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」「求める」という行為の中心にあるのは「相手を信じる気持ち」です。相手を信じないで求めることは「奪うこと」になってしまいます。では本当に信じられる相手とは誰でしょうか。ここで主イエスは神がどのような存在であるか明らかにされるのです。神は「父」なのです。わたしたちを創造し命を与えられた神は、わたしたちを生んだ父や母のように、いやそれ以上にわたしたちを信じ心から愛し慈しみなによりも求めてくる子であるわたしたちになんとしてでも応答しようとされる方なのです。

「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と。

ただ、主イエスは、神がわたしたちの求めに必ず応答してくださる方であると言って終わるのではありません。最後に主イエスはこれまででもっとも大切な言葉を与えられます。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。

「おやっ」と思われる方がおられるかもしれません。「求めなさい」と言われたのに「人にしなさい」という行い命じられるのか、と。言葉を代えましょう。それはこういうことです。「人から愛されたいと思うなら、その人を愛しなさい」。愛は自分に返ってくるものなのです。隣人に微笑めば隣人も微笑みを返すでしょう。それがすぐにではなくても、時をかけてあるいはかたちを変えて愛も微笑みも自分に返ってくるでしょう。主イエスはわたしたちを罪から救い出すために自分の命を捨てられました。この主イエスを信じる時、わたしと隣人の間に、家庭に社会に世界に「愛」が生まれます。神の愛を信じて求めましょう。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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