説教 20211121 創世記16章1~16節「恩讐を越えて」

 ― わたしを顧みる神 ―

 人間にとって自分のことを誰かに思い出してもらうことほど嬉しいことはないのではないでしょうか。昔の友人に「元気かい。君のことをいつも覚えてるよ」とか過去に何気なく漏らした悲しい気持ちを知人が思い出して「あの時こんなことを言ってたけど大丈夫かい」とか言われると「えっ、覚えていてくれたの」と心から嬉しくなるものです。自分のことを誰かに覚えられている、誰かが知っていてくれるというのは本当に生きていく時の力になるのではないでしょうか。誰も自分のことなんか覚えていてくれない、気にも留めてくれない。それこそ孤独の極みと言えるでしょう。でもそんな孤独の極みは山奥や無人島の暮しの中によりも、かえって社会の中の日々の、人々との繋がりの中に案外あるのかもしれません。

 この創世記16章の物語にハガルという女奴隷が登場します。この女奴隷に起きたひとつの事件から彼女はそんな孤独と向き合うことになります。ハガルはアブラムの妻であるサライの仕え女でした。そんなハガルに女主人のサライがその夫アブラムとの間に子を作れと命じたのでした。なんとも不可解な命令ですが女主人サライは夫アブラムの信仰を思ってのことでした。アブラムはすでに75歳を超える年齢であったにもかかわらず神の約束を信じてやがて星の数にもなる子孫の誕生を待っていました。でも妻サライは同様に高齢である自分にそのような子どもが産めるとはまったく考えられませんでした。切羽詰まったサライは結局自分の女奴隷のハガルに自分の子を作らせようとしたのでした。女性である自分自身の体を知るサライにしてみれば年齢の重さを十分に知ったうえでの決断だったでしょう。

ただしここでハガルが奴隷であったことは深く考えねばなりません。主人サライは奴隷ハガルを人間というよりもあくまで人格もない「自分の一部」と考えていましたから、生まれる子はたとえハガルから生まれようが「自分サライのもの」と思ったのです。ですからそんな不可解な決断ができたのでしょう。でもいったん子どもがお腹にできてしまうと、たとい奴隷であっても女性はお腹の子に対して命の保護者の自覚が高まり到底主人サライの子とは思えないでしょう。創世記は4節にすぐ「彼女は女主人を軽んじた」と伝えます。たとい主人であろうとお腹にいる子を後回しに考えることは母の意志に反するのです。

そうするとここで奴隷であるはずのハガルの中にそれを踏み越える独立性や自主性が生じているのです。何を置いても子どもを優先させようとするのは母となった女性の至上命題です。こうして主人サライと奴隷にして母ともなったハガルの間にひとつのヒビが入ります。また二人のいさかいには夫アブラムも関与することなく、ついにハガルはつらく当たる主人サライから逃げて行きました。もともとハガルという名前の意味は「遠ざかる」とか「引く」などの意味といいます。主人から低く身を引くという卑下の意味合いかもしれませんし、実際「逃げる」という行為を示すものだったかもしれませんが、ハガルは遥か遠くのシュル街道沿いの泉まで逃げてそこで神の使いに会ったのでした。シュルはシナイ半島の北方にある砂漠地帯でした。奴隷のままであれば心に独立心や自分の意志もわかず命ぜられるまま主人の家財の一つとして家に居続けたでしょう。しかし母となることをきっかけにハガルは自分なりの生き方を求めるようになり、自由に歩くようになったが結果、生きるに困難な砂漠地帯に足を踏み入れることとなってしまったのです。つまり自分の居場所を探して行き着いた先は渇き切った砂漠であり、そこで彼女のことを知る誰もいない孤独に陥って枯渇してしまうのでした。それは今日のわたしたちにもありそうな絶体絶命の状態でしょう。

その時荒野シュルにあった泉のほとりに神の使いが現われて言ったというのです。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(8節)。そして使いはハガルに言うのでした。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」(9節)と。さらに使いは彼女が身ごもっている子の名前を伝え、やがて成長する彼の人となりや人間関係まで予言します。「彼は野生のろばのような人になる。 彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので 人々は皆、彼にこぶしを振るう。 彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」(12節)。「イシュマエル」という名前は「神は聞いてくださる」という意味です。それは母ハガルがまさに身を引こうとした悲しみの時に神は見棄てずに彼女の身の上と苦しみを聞き届けて支えられたからでした。この文脈はどこか主イエスを生むマリアへの場面を思い起こさせますが、それはこうした人間関係の軋轢の中で生まれる子どもさえも決して神は見放されないことをいうのでしょう。イシュマエルは21章でアブラムの嫡子イサクへのからかいがもとでやはり女主人サライによって追われることとなりますが、25章ではその埋葬が父アブラムや義兄弟イサクの墓と並べられ、子孫たちはユダヤの周辺の荒野に住み着いたことが書かれて決して敵対者ではなかったことが示されています。

ただ胸に迫るのはハガルに象徴される女性また人間の姿です。すなわちサライは神が約束されたことを自分の限界ゆえに信じ切れず自分の考えと策によって実現しようとして奴隷ハガルにイシュマエルを生ませました。神のみ心とは異なる人間的画策によって女性としてのかけがえのない出産行為を利用させられる人間です。でもこの神の心に沿わないで利用された母も生まれた子も神は知っていてくださるのです。自分は人生の中心から外され、脇でしか生きられないと孤独に行き詰まり悲しむ時、そこに泉を湧かせ神は目を向けて孤独も悲しみも知ってくださるのです。人間は舞台の中心に立たなければ生きられないのでしょうか。主イエスの十字架の横に共に十字架につけられた囚人を思い起こします。彼は言いました「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。「わたしを思い出してください」それは「わたしを顧みてください」「わたしの悲しみを知ってください」と言います。主イエスは答えられました「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。誰のどんな人生にも「わたしを顧みられる神」がおられます。エル・ラハイ・ロイ、「わたしを顧みる神を見つめる者の泉」命の泉それは主イエス・キリスト。これがわたしたち一人一人の人生の場ではないでしょうか。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

ようこそ、田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)のホームページへ。