説教 20211107 マタイによる福音書6章16~24節「澄んだ目で神を見よう」

 ― どこを見て人生を生きる? ―

 黒澤明監督の初期の作品に『生きる』という映画があります。主人公は役所をもう定年というのに癌が発見されます。それまで何事もなく生きてきた彼は「自分の人生に裏切られた」と絶望に落ち込みます。そんな時、役所を退職してまで好きな玩具製作所に転職した若い部下の女性が生き生きと働いている姿に感銘し、彼女から話を聞くうちに生きることに目覚めます。漫然と生きてきた自分の人生に復讐するように彼は誰も受け付けなかった住民の苦情を解決しようと奮闘します。そしてついに上司の反対をさえ押し切って建設した公園の開園日の早朝、冷たくなってブランコに座る彼の身体が発見されました。この映画のテーマは本当に生きることに気づくことの重要さを描いたものと言えるでしょう。

 この映画には癌に犯されたことから「生きる」を探そうとした人物が出てきますが、わたしたちも少なからず様々なきっかけで「生きる」ことの探求に駆り出されるのではないでしょうか。ハイデガーという哲学者は人間は根底に自分の生き方に問いを抱えていて、時にそれに突き当たって人生を考え直させられると言います。それはこんな問いだと言います。「存在は在るのか。いったいそれは無ではないか」と。言い換えれば「自分はあたりまえのように生きているけど、本当は全然生きていない。それは何の意味もないのじゃないか」という問いです。本当に自分はこれでいいのか?本当の生き方を自分はしているんだろうか?という問いです。

 このマタイによる福音書6章16~24節で主イエスはそれを問うていると思います。ここのテーマを一言でいえば「人々の前で自分を偉ぶり誇るためでなく、神の前で澄んだ心で生きなさい」と言うことができます。16節以下に偽善者のことを言われます。「あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」。むしろ「断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」、それというのは「あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と。ひと言でいえば断食は他人に見せるためにあるのかということです。断食は人を驚嘆させるよりも神のための修行ではないでしょうか。ではなぜそんな「沈んだ顔つき」や「見苦しい顔」の偽善者はするのでしょうか。それは偽善者が本当は不幸だからです。彼らはたんに聖人ぶって世俗の人間より偉大そうに見せかけて自分を貴く見せたいからだけではないのです。悲しいことに偽善者は真実のところ自分の生き方に確信がないのです。それゆえに表向きに「沈んだ顔つき」や「見苦しさ」という見せかけの偽善の善行で他人からの評判をとらずにおれないのです。でもそれはまさに他者に自分と同じ不幸を背負わせようというたくらみに他なりません。

 また言われます「地上に富を積んではならない」そうではなく「富は、天に積みなさい」と。地上に積む富とは生きている間に人々や社会から見返りを受けることでしょう。一生を安心して生きられるような大金持ちになって胸を撫でおろすことがそう。あるいは名が知られること、有名になって人から賞賛され心躍らせることが。でもそんな見知らぬ他人や世間から賞賛されたいと思うのは真実の護り手の神を知らないからです。真に自分を愛してくださる父を知らないからこそ地上の富に頼ってしまうのです。

 22節は真実の奥義が明かされます。主イエスは言われます。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。「あなたの中にある光」「体のともし火」の目があなたを照らしあなたの心や体を照らせばあなたの人生が見えてくる。神に照らされたあなたのはっきりした生き方が見えてくる。あなたを照らすあなたの目それは「澄んだ目」です。自分の父のように神を仰ぐ澄んだ心の目です。澄んだ心が神をはっきり見るならわたしたちはたとえどんな困難の中で道が見えなくなっても歩み生きて行けるのです。

 24節は結論であり主イエスからの警句といえるでしょう。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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