説教 20211017 「神は命かけて約束される」

― 絶望から立ち上がる人生 ―

 誰かに励まされたことはありますか。もう真っ暗だ、先も未来も見えやしない、人生、ここで終わりかな、と倒れ伏しているとき、「大丈夫、立ち上がって前に進みなさい。あなたは生きて行っていい」と励ます声を聞いたことはありますか。

 創世記第15章は神とアブラムの契約を描いていますが、神がアブラムに励ましを与える場面と言えるでしょう。アブラムは神に選びだされ、約束された地のカナンに到達して、その地での争いごとを平定した後、いよいよこのカナンを足場に人生を始めようとしていました。その矢先、神はひとつの約束をアブラムに与えられたのです。

 この第15章は「神の約束」を主題としますが、二つの「シーン」に別れています。最初は1節から7節までの天の星空のシーン。そこでは後継者となる子がいないアブラムに神が約束を語られる情景です。2番目は8節から21節までですが、にわかに受け入れがたいその神の約束の確証がアブラムに与えられるという子孫の未来の預言と共に語られる情景と言えるでしょう。

 「天空の星々」そして「暗黒の闇」を背景に神の言葉が告げられます。「子孫」をあらわす無数の「星」や切り裂かれた動物たちの描写に神が契約にこめられた真実と確かさを感じることができるでしょう。さらに具体的に四百年にわたる子孫の異国での滞在と帰国の予言さえ告げられます。

 さてじつはアブラムほど幾度もその人生の歩みを断ち切られてしまう人物はいませんでした。最初に旅を共にした父がハランで死んでしまった時アブラムは先に進みませんでした。しかしそんな彼を選んで神がようやくカナンへと導くのですが、そこでもアブラムは飢饉でエジプトへ逃げ出しました。しかしそこでも問題を起こし追われてカナンへ舞い戻り定住を始めるのですがアブラムの内心は虚しかったのでした。なぜならすでに人生の晩年というのに彼には子がいなかったからです。神が非常に大きな報いすなわち人生の実りと言ってよい賜物を与えると言われた時、アブラムは少しも喜べませんでした。「主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません」。苛立ちを隠せずアブラムは神に言うのでした。神よ、あなたがどんな報いをくださってもわたしのものとはなりません。わたしの人生には何も残らないでしょう、と。その時アブラムに神が見せたものが夜空に広がる満天の星でした。『主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」』。星は肉眼に見えるだけでも4千ほどあると言われ、ダニエル書では神を讃えて光を放つ無数の従者と呼ばれ、マタイは人に救い主の誕生を知らせる「しるし」となります。わたしも8月のある日曜前の夜半に、伊良湖岬まで言って星空を見上げました。海風で空は澄みわたりほんとに無数の星が輝いていました。アブラムは天を覆う無限の星に神の永遠の奥深さを見たのではないでしょうか。

すると聖書はすぐに「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書きます。ただそれはどこか唐突な気がします。星空に圧倒されたとかそれを動かす神の偉大さに深く感動したとも書きません。「信じた」のでした。何故でしょう。「信じた」を「受けいれた」と言い換えましょう。それは満天の星空にアブラム一人のために命のすべてを注ごうとしている神の人格を見たからでした。アブラムは神が自身の全存在をかけて彼の前に立とうとする思いを知り受けとめ「信じた」のでした。主である神はアブラムが信じたときそれを「義」と認められます。「義」とは「満たす」「応じる」という意味を表します。アブラムは神の人格がこめられた約束に応答したのでした。

でも神はこの約束は大きな苦しみを神に導かれ乗り越えることによってしか成し遂げられないだろうと予言をされます。アブラムが「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか」と訊ねた時、神は謎めいた要求をアブラムに出しました。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい」。アブラムは動物たちを真っ二つに切り裂き、鳥は別において並べました。やがて「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」と書かれ、その後、後世に起きたイスラエルの民の出エジプトの苦難の予言がされます。日没、深い眠り、そして恐ろしい大いなる暗黒という情景は神に導かれるイスラエルの旅の苦しみをあらわします。真っ二つに裂かれた動物たちの間を通り行く松明。これはエジプト脱出の旅を先導した火の柱、雲の柱のことではないでしょうか。不思議なのはこんなアブラムの時代にどうして後世の出エジプトのことが分かるんだという疑問です。じつはこの創世記がまとめられたのはアブラムとか出エジプトどころかもっと後の時代、イスラエルがバビロン捕囚を終えて国を再興する紀元前6世紀以後でしたからそうした後世の視点で古いアブラムへの神の約束と予言を書きこむことができたのです。

満天の星、暗黒の旅、そして約束の地への到達。神の約束と予言を信じて従った人がいました。アブラムです。いえ、まだいます。それはこの約束物語が書かれた時代のユダヤ人たちでした。彼らもアブラムと同じく人生の果てに立っていました。異国との戦争、滅亡と捕囚を経て帰り着いた故国の地は荒れ果て、虚しさが人々を覆っていました。彼らが立ち上がるために何が必要だったでしょうか。財力か、国策か、それとも武力か?いえ、そのすべては灰となりました。今彼らが復興し立ち上がるためにもっとも力を与えるもの、それは神の人格をかけた約束、あのアブラムを立ち上がらせたと同じ約束だったのです。

この約束物語はアブラムのためであると同時にこれを読むユダヤの人々のため、そしてじつは今日これを読むわたしたちのために描かれたと言えるのです。

信仰の義はこう考えます。わたしたちは絶望で終わるのではない。神が人格をかけてわたしたちに向かい合おうとされる時、わたしたち人間は虚しく滅んで何も無くなって終わるのではありません。わたしたちは弱くても、わたしたちのために神は命ある全存在をかけてくださった。ここに大いなる励ましがあり、わたしたちの再出発と復興があります。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

ようこそ、田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)のホームページへ。