説教 202101003 「赦しあって生かされる」
― ひとつの傷の下に立つなら ―
「主の祈り」を祈る時なにか疑問を感じることはありませんか。それは主の祈りの後半にある「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という祈りです。「えっ!わたしたちそんなにすぐ他人の罪を赦せるの?」と思いませんか。キリスト教の教えでも人間の原罪が説かれ「だったらなおさら、どうして罪人の自分が『我らがゆるすごとく』など祈れるんだ」と疑問を持ちませんか。このマタイによる福音書6章12節は「主の祈り」の元型ですが、そこでも「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、主イエスはさらに「赦しました」という過去形まで使い、わたしたちが事も無げに赦しを行えるかのように教えられます。ますます主の祈りのこの部分を口ごもってしまうような気がします。
むしろわたしたちが他人からの罪に対して向けるもの、それは「裁き」ではないでしょうか。他人がわたしに罪を犯した時、真っ先にすることそれは相手への裁き、責め、追及、非難ではないでしょうか。「なぜ法規を守らなかった?なぜ立場を踏み越えた?なぜ良心を踏みにじった?」と。人は過ちを犯した人を土下座までさせて傷つけ、「赦せない」「極刑だ」と非難し批判し炎上します。時に感情的な怨念や憎悪さえ上積みして抹殺しようとします。さらに心にある「裁き」が恐ろしいのは「赦してやる」と言いながら相手を裁きつづけることです。謝罪してきた相手に「よろしい!」と見下し上に立ってなおも裁きつづけます。それでいて自分は赦したつまり!「赦せない」のは他人に対してばかりではありません。災害の中で身動きできない人を見棄てて逃げ出した自分を生涯赦せず裁き続けたという人もいます。「自分なんかいないほうがいい」。これも「裁き」が罪を攻撃しようとする姿です。
ここで目を向けたいのは、主イエスがわたしたちに「罪を犯さないように」とは教えていないことです。主イエスは「赦し」を祈るように教えているのです。赦しは「罪を犯さない」ことよりも困難なことかもしれません。赦すことは辛いことです。もし「赦し」ではなく、他人の罪や負い目や過ちを済ませようとしたら「解決する」ことでしょう。旧約聖書の律法の「目には目、歯には歯」という合法の均等的な復讐法に従っておけば問題としては「解決」します。でも「赦し」はありません。「赦し」とは何でしょう。
ルカによる福音書の15章に「放蕩息子の譬え」という物語が書かれています。主イエスが語られました。ある人に二人の息子がいた。ある日、弟のほうが父に財産の分け前を要求し、それを受け取ると、さっさと家を出てしまいました。ところが弟は賑やかな街に出て享楽の生活に財産を使い果たしてしまいました。社会に飢饉が襲いかかり、ついには豚小屋の番人になり果ててしまいました。空腹の中で豚の餌までも食べたいと思うほどでした。その時ふと、弟はわれに返って、父親の家での食事を思い出しました。「父のもとではありあまる食事が雇人にさえ与えられた。なのに自分はここで今にも死にそうだ」。彼は心に決めました。「そうだ、父のもとに帰って言おう『お父さん、わたしは天にもあなたにも罪を犯しました。息子の資格はありません。どうぞ雇人の一人として家に入れてください』と」。弟が故郷にもどり、家に近づいた時、まだ遠く離れたところの彼を見つけたのは、あの父でした。走り寄ったのは父でした。「お父さん、わたしはあなたに罪を犯しました。もう息子の資格はありません。」そう言う弟の言葉をふさがんばかりに父は言いました。「いちばん良い服をこの子に着せなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」。
ここでわたしたちの心に鮮やかに浮かび上がる情景があります。それは情けなく帰郷した息子の立つところまで息せき切って駆け寄り、あらん限りの愛情を込めて抱きしめる父親の姿です。父は息子を問い正そうとはしません。いさめません。息子がすでに自分のしたことの罪を知り、ただ父にのみ自分をゆだねようとしていることを受け止めます。父はこの子の父であることを一心に喜ぶのです。確かにこの二人の間に見落としてはならないものがあります。それは「罪」です。息子の罪は二人を二度とつなぎ合わせられないような断絶を作っていました。しかしこの「罪の断絶」を飛び越えて父は子のもとに駆け寄ったのでした。父は裁かず、赦したのでした。赦しのかたちはこの「断絶の飛び越え」「駆け寄り」にあります。
「主の祈り」は後半、わたしたちの生活にかかわる祈りが主題とされます。最初は「わたしたちに必要な糧」の必要が祈られますが、その直後は「赦し」という言葉が6回も語られる祈りとなります。「糧」はイエスが悪魔に打ち勝たれた時「パンのみにあらず」と言われた「パン」と同じ原語です。
ここに6回も語られる「赦し」とは何でしょう。それは「ひとつの傷の下に共に立つ」ことです。放蕩息子に裏切られ、去られて癒えぬ傷を抱えたままの父が、罪を背負いその重さから逃げきれず罪人のままで帰る息子のところに駆け寄って手を取る姿です。罪を犯した者と罪を犯されて痛む者が、ひとしくその罪の傷のもとに立って向かい合い、共に思いを求めて祈りあうことです。こんにち犯罪裁判の司法で「修復的司法」または「和解的司法」という解決法が考えられています。犯罪加害者が単純に法律に対して罪を犯したという視点に立って、被害者の思いや感情を考慮しないで裁かれる刑事司法ではなく、加害者と被害者が心から向かい合い、犯された罪とそれによる傷のもとに共に立って解決をめざすというものです。これは放蕩息子の告白と父親の赦しの物語に見て取れる和解のかたちです。
日本の諺に「ならぬ堪忍、するが堪忍」というのがあります。とても赦せない相手を赦すことこそ真の赦しだ、と言いかえられるでしょう。一種の忍耐の美徳を表します。でも主イエスは「美徳」を教えられたのでしょうか。あの譬えの中の父は美徳ゆえに我が子を抱きしめたでしょうか。あの父が子に駆け寄り接吻までしたのは彼の告白する罪を痛みを負って心に留めつつも、罪を背負う子がそれでも必死に差し伸べてきた手を憐れんで愛したからではないでしょうか。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。それは次のように言えるでしょうか。「父よ、あなたが罪の傷のもとでわたしたちと一つとなられたように、わたしたちも傷を共に見つめ、ひとつと成らせてください」と。罪の傷、それはイエスの十字架を思います。主イエスの十字架に続くわたしたちの十字架はただ神に対しての罪でなく隣人に対しての罪をも背負うのです。「赦し」とは隣人と共に傷を見つめ痛みあうことです。罪を犯された人は犯した人と共に傷を見つめてこそ赦すことができるのです。
パウロはこう言います。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3.13~14)。神の愛、キリストの十字架に赦しがあります。
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