メッセージ「父は祈りを聞かれる」

説教 202100905 マタイによる福音書6章9-24「父は祈りを聞かれる」

 「天にましますわれらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」。このように始まるわたしたちの「主の祈り」は、時にこの世のキリスト教を知らない人でも何かお道化て口にすることさえあるくらい心に刻まれやすい印象をおびた祈りです。教会学校に初めて来た小さな子供でも、何回か周りの友だちの言葉に合わせているうちにやがてスラスラと心地よくリズミカルに祈るようになっていきます。気持ちよく覚えやすいというだけでなく、この「主の祈り」を口ずさむと苛立った感情が癒され落ち着かされるような気がします。以前、春の修養会で長野に向かった時、突如季節外れの雪が積もりだしました。皆が乗ったマイクロバスはちょうど坂道に差し掛かり、大変なことになりそうでした。運転役のYさんは最初とても慌ててタイヤにチェーンを巻いていたのですが、やがてなにかブツブツ言いながら安心した顔で運転席に戻りユックリとバスを動かしたのでした。後で何をブツブツ言ってたのですかと聞くと、「やあ主の祈りをしながら巻いてたんですよ」とのことでした。なるほどと納得しました。それは礼拝で見るのと同じ明るいYさんらしい姿だったからです。

そこでもう一つ「ああ、そうか!」と合点がいった思いがあります。それはこの祈りが「主の祈り」と呼ばれるように、主イエスが「だから、こう祈りなさい」と教えておられる祈りだからです。つまりイエスはあのYさんがしたように「悩んだ時、困った時、悲しく苦しい時にこれを祈りなさい」と勧めておられるのです。テレビのヒーローが「困った時、危険な目に合ったら、この笛を吹きなさい。ボクは飛んで来るよ」というのと同じようです。壁に突き当たって進めない時「主の祈り」を唱えれば、そこに主イエスが来て共にいてくださる、主の祈りはそんな祈りではないでしょうか。

 ただそうは言っても「主の祈り」は「まじない」とか呪文のようなものではありません。「主の祈り」は神の民であるユダヤ社会に生まれ培われたイエスの神への深い知恵と愛によって結晶化した宝石のような祈りと言わなければなりません。じつはこれほど必要最小限の言葉で神とわたしたち人間との深い繋がりすなわち願いや感謝そして讃美を表した言葉は他にないのです。

 主イエスの深い知恵を伺わせるのはこの主の祈りが旧約聖書の「十戒」との対比として構成されていることです。「十戒」は讃美歌21の93-3番に10個の番号付きで書かれていますので、ご覧になればお判りになるでしょう。見ると前半(1)から(4)が神とわたしたちの関係です。それは主の祈りではマタイによる福音書では9節から10節までの部分に当たり、十戒後半(5)から(10)までが主の祈り後半の11節から13節に対応するのです。後半の内容は隣人と共に生きる生活のための教えです。しかし主イエスは旧約の根幹であるこの十戒という律法を心に留めつつも神に対する深い知恵と愛をとおして、新たに「祈りによって生きる生き方」をわたしたちに与えてくださったのです。もう律法や掟によってではなく父である神に呼びかける祈りによって神と隣人と共に生きよと言われるのです。ただし主イエスはたんに「律法」を「祈り」とすげ替えたというのではありません。まさに山上の説教のクライマックスです。なぜ主イエスは律法に代えて祈りを教えられたでしょう。それは主イエスにとってそしてわたしたちにとって、あの神が律法をつかさどる「王」や「主」ではなく紛れもなく「父」であるからです。神を「父」と呼びかけられたのは主イエスが初めてです。旧約聖書のどこを探しても神を「父」と呼んでいるところはひとつもありません。律法の王は上から支配し裁き命令を下します。「主なる神」も被造物を管理し契約の履行を点検します。「王や主」とわたしたちの間には厳しい境界線があります。「王」や「主」はこの境界線から一歩でも中にわたしたちを入らせません。でも主イエスにとって神は「父」にほかなりませんでした。父は子のそばにいるのが当たり前のようなそんな「父」です。12歳の神殿参りの際に家族から離れ神殿に残りつづけられた時も「自分の父の家にいるのは当たり前」(ルカによる福音書2章49)だったからでした。父は生み愛し育み鍛え正義を教えてどこまでも子に接し共にあろうとされます。放蕩息子の帰りを待つ父のように。わたしたちの父親はどうでしたでしょう。じつはわたしの場合、父は経済事情もあり子どものわたしを殴る蹴るの短気な親でした。母に対しても乱暴を振るっていました。でもわたしの小さい時コタツの火が燃え移ったわたしの寝間着を手でつかんで消してくれたことや私たちのためと言って先のことを考えてくれたことを思い出します。なによりも父親の強く大きな膝の中でガッシリした感触から伝わる温かかな安心感を忘れません。

それゆえ主イエスは祈りの始めに「わたしたちの父よ」と呼びかけるようにと教えられました。それは天の父が主イエスの父であられるだけでなく、わたしたちにとっても「父」であろうとしておられることを示すのです。「あなたたちは神を父と呼びなさい。なぜなら神はあなたたちの父であることを願われるから」、そう主イエスは言われるのです。

父の愛にたぐり寄せられるような呼びかけの後「御名が崇められますように」と続きます。「御名」とはもちろん「父」と言えましょう。「崇められ」は原語は「聖とされる」ですが、それは聖なる神に心打たれ「あなたを心から呼び求め続けさせてください」さらに言えば「あなたをいつまでも呼び続けさせてください」という熱い讃美の祈りではないでしょうか。

そして「御国が来ますように」と言います。「わたしたちが天のみ国に行けますように」とは祈らないのです。御国とは神の国と言えましょう。ただそれは国の領土や領域のことではなく「神の支配」のことです。しかし「支配」といってもそれは民を無視して「やりたいことをやり放題」という独裁のようなことを言うのではありません。この祈りがあらわすものは「父がわたしたちの生きる中心におられることがひしと伝わる臨在」です。「ここがほんらい父のおられるべき国」かのごとくどっしりと腰を降ろして、わたしたちに愛の顔を向けて安心感を与え、わたしたちと共に住まわれますようにと祈るのです。

「御心が行われますように」で注目すべきは「御心が」と祈られ、けっして「みわざが行われますように」ではないことです。重要なのは神のみわざを賞賛することでなく父である神のみ心がわたしたちに明らかにされることです。この祈りは「天におけるように地の上にも」と続けられるように主イエスはわたしたちが住み生きる今この地上の社会に神が思いをあらわされることを祈ります。大切なことは父である神がわたしたちに心を開き救いの愛を伝えてわたしたちのこの世界のすべての命の中で働かれることです。

そして後半の祈りは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」から流れ出るように祈ります。それは生きるために苦悩する生活や隣人との軋轢に悶々とするわたしたちがついに立ち戻るべき帰着点また逃れの山と言ってよいでしょう。「わたしたちに必要な糧」「わたしたちの負い目」「わたしたちを誘惑に遭わせず」。なんと多くの「わたしたち」のことばかりでしょう。その数限りない問題のすべてを父は「ご存じなのだ」「知っていてくださる」そこにほんとうの神の応答があるのではないでしょうか。

高岡清牧師

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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