メッセージ「腹を立ててはならない」
メッセージ「腹を立ててはならない」(2021年6月6日教会礼拝説教より) 高岡 清牧師
水野源三さん他の信仰詩集『こんな美しい朝に』に、こんな詩があります。
「よかった」(河野進)
「ほほえんでよかった
だまっていてよかった
悪口をいわないでよかった
我慢してよかった
怒らないでよかった
やさしくいってよかった
お祈りしてよかった」
人の悪口を言うときやののしるとき、自分の心のなかに口では言い表せないほど絶望的に空しく、嫌な気分を味わうことはありませんか。人に腹を立てるときなにか自分が神様からとてつもなく離れ去っていくように感じながら、怒りを止められずにいるのです。人をけなしながら、じつは自分自身を貶めているそんな自分がいやになります。
「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5.22-24)。
「兄弟に腹を立てる」。でもそれは「殺す」に等しいことだと主イエスは言われるのです。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は・・」と。これはモーセの十戒の第六戒「殺してはならない」をさしています。そこに主イエスは言われるのです。「殺すだけじゃない、腹を立てても心の中で憎んでも裁きを受けることになるのだ」。社会的にも大事件になるような殺人だけが裁かれるのじゃない、隣人に対して心の中に湧き上がる腹立ちや怒りのような目に見えない小さなさえも罪となるのです。
前の18節以下で主イエスは言われます。「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。律法の一点一画、最も小さな掟、でもそこにこそわたしたち人間の心の震えを隈なく見つめておられる神の目があるのです。
わたしたちはどんな時に腹立つでしょうか。どんなことに怒るのでしょうか。よく「誰かの言葉に傷ついた」とか「誰々のすることにムカついた、許せない」と言います。それは自分が理解してもらえない時とか同感してもらえない時、つまり共感してもらえない時や愛を与えられていない時にいう言葉です。「なんでわかってくれないのか!」深い孤独の中に閉じ込められてしまった時です。怒り心の傷、それは誰にも寄り添ってもらえない時です。そして主イエスはその行き着く先が「裁き」しかないというのです。
でもイエスは裁きを結論とはされません。「まず行って兄弟と仲直りをし」また「途中で早く和解しなさい」と言われます。仲直りは子供の時によく聞いた言葉ですし和解は大人の社会でよく使われる言葉ですが同じ内容です。仲直りと和解。それはただ単に手を繋ぎ合うとか認め合うという意味ではありません。それは「同じところに立つ」という意味です。さらに言えば「同じ一つの傷、痛みの上に立つ」ということです。
近年、なんらかの刑事事件の司法的解決で「修復的司法」という解決法が言われるようになりました。こんにち一般的には「加害者に対しては被害者に代わって法律が犯罪者に相応の裁きを下す」という応報的司法による裁判がなされます。これは被害者本人による加害者に対する私的制裁つまり復讐や仇討ちの連鎖を防ぐためですが、そのため被害者と加害者が直接顔を合わすことができません。結局、司法による復讐というような応報的裁定に任せきりになりますから、被害者の加害者に対する感情の処理がお座なりになります。よく被害者のインタビューで「犯人にどんな罰が与えられてもわたしは赦せない」と言われることがあります。こんにち凶悪事件などで被害者が加害者への鬱憤を晴らしようなく厳罰のみを訴えるのは大変に悲しいことです。その欠点を解消するのがこの修復的司法で聖書から取り入れられたと言われています。被害者と加害者を向き合わせ話し合わせるものですが、その原点はこのイエスの言葉にあると言えましょう。
「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。」
仲直りとはなんでしょう。和解とはなんでしょう。それは被害者と加害者、怒る者と怒りを向けられる者とが、犯し犯された罪、つけられた傷、つけた傷というひとつの痛みの上に立って罪の重さにひれ伏し互いの傷や痛みに気付き理解し合うことです。でもこのように被害と加害の上にまたがる重い罪の前にひれ伏すとは言え、それは人間には重すぎるのではないでしょうか。そこに真実の赦しと悔いの道はいったいあるのでしょうか。わたしは思います。人が互いに傷つけ傷つく、犯し犯される罪の傷と痛みの真っ只中にこそ、死を背負ってまで人を愛し赦そうとされたキリストの傷があることを見なければならないでしょう。神に捧げ物をする前にそして裁きが降る前にしなければならないことがある。それはキリストが背負われた受難の傷にまずわたしたちが赦され、癒されることなのです。
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