メッセージ「わたしの復活にキリストの復活あり」
メッセージ「わたしの復活にキリストの復活あり」(2021年4月4日教会礼拝説教より)
イエス・キリストを描いた映画を鑑賞したことはありますか。かつては『キングオブキングス』とか『偉大な生涯の物語』などのハリウッドの総力をかけた名画などが製作公開され、話題をさらったものでした。高校の映画鑑賞で観終わった直後同級生に感想を聞くと「主人公のイエスに胸を打たれた」とか「福音書のイエスをなかなか良く忠実に描けていたね」とかずいぶん感動したようでしたが翌日にもなるとすっかり忘れてしまっていました。聖書の中に描かれたイエス・キリストは、上映中どんなに輝いて活躍しようと映画館を出ればせいぜい「よかったね」の感想で終わってしまう映画のヒーロー的主人公のようなものでしょうか。決してそうではありません。映画に限らず、もし宣教がどんなに声の限りを尽くしてであれ、ただ「イエス・キリストは神の子だ」とか「主イエスは復活した」とか「キリストは栄光の主だ」とその救いのわざ、贖い、栄光をお題目のように並べ立てて賛美するだけなら、信仰者はただイエス・キリストのファンにすぎず、聖書も福音書も時代とともに潰え去る文芸作品や歴史的物語のひとつとして終わってしまうでしょう。
キリスト教音楽のひとつでヘンデルが作曲した『メサイア』はクリスマスシーズンなどに演奏され、一般にイエス・キリストの生涯、復活、栄光を描いた宗教音楽とされています。その点では多くの「イエス・キリスト映画」と同じと言ってよいでしょう。ただ「メサイア」のタイトルが示すようになるほどイエス・キリストは歌われますが、曲全体はそれにとどまりません。よく聴いてみるとそれは三部で構成され、その骨格は「クレドー」すなわち「使徒信条」に基づいています。第一部に「父なる神」、第二部にイエス・キリスト、そして第三部には聖霊が背景に想定されているのです。ただ『メサイア』は劇場用の「オラトリオ」として作曲され、信条内容ではなく聖書からのドラマチックな引用で構成されています。そこでこの『メサイア』を歌う合唱団の人たちの間で持ち上がる問題があります。それは第三部の内容がよくわからない、あえて第三部を何故歌うのか理由がわからない、という疑問です。第二部の最後の「ハレルヤコーラス」で王であるキリストのが歌われ、キリストは勝利したのに、何故また第三部が始まり演奏されなければならないのか。
もとの脚本を書いたジェネンズはこの『オラトリオ メサイア』を「ファイン・エンターテインメント(極上の娯楽)」と呼んだそうですが、まさにその極上のオラトリオの真骨頂が、じつはこの第三部にあると考えられるのです。「ファイン」と呼ぶようにそれはたんに娯楽という次元を超えており、まさしく「信仰」という観点からも第三部は『オラトリオ メサイア』が「宗教曲」であるために欠くことができないのです。そればかりか、曲全体はここに至ってはじめて第二部まで以上の生気を帯び、メサイアが「わたしたちのメサイア」であることの精髄を映し出すと言ってよいのです。
一般の人が『メサイア』の第三部を理解できないというのは、『メサイア』を映画のように受け止めているからです。「キリストは十字架で罪を贖い死から復活し悪を滅ぼして王となった。ハレルヤ!これでいいじゃないか」。いや、それでは演奏会場を後にした途端キリストは消えます。第三部は何を歌う?それは「復活」です。しかしそれはイエス・キリストの復活を受け継いだ人間である「わたしの復活」です。キリストにつづいて「わたし」という人間が復活して生きることが『メサイア』第三部の主題であると考えられます。そこには第二部のようなイエス・キリストの言葉や行いが描かれているのではありません。でもキリストを信じる人間が復活の希望をいだいて生きるときにそこにキリストの復活が起き現実となることの告白が歌われるのです。
『メサイア』の構成はキリスト教の「クレドー」すなわち「使徒信条」に則っていると言いました。その第三項は「聖霊」についての告白です。『メサイア』の第三部もそれに準じますがそこでは聖霊は復活者の生き方として描かれるのです。それはアリアによってヨブ記第十九章25節の言葉「私は知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」が歌い出されることによって始められるのです。そして第三部全体を見ますと気づくことがあります。それは選ばれている聖句の多くが葬儀において読まれるものが多いことです。言うならば第三部はキリスト教葬礼の特徴を取り入れつつ人間の死がキリストの復活によって新しい命への復活へと取って変えられる現実を歌い上げるのです。ここではキリストの復活の真の意味が人間の復活によって実現されるのです。じつは『オラトリオ メサイアの謎』と、わたしは言うのですが、第二部でのイエス・キリストの十字架の死から復活への進行があまりにも「素っ気なさ過ぎる」のです。合唱される人や何度も聴いて馴染んでおられる人も気づいておられると思いますが、折角のイエス・キリストの復活なのにこれといった「ドラマ的」盛り上がりがないのです。不遜にも、何かグッとキリストの復活を印象づける曲でもあればと思ったものです。でもそれがこの『オラトリオ メサイア』のミソなんです。キリストの復活のほんとうの意義は第三部の人間の復活告白に至ってこそ表されなければならないのです。イエス・キリストがヒーローのようにひとり盛り上がって復活することが復活の真理ではなく、イエスに続いて死すべき人間が復活することこそがキリストの復活の真の現れなのです。葬礼の様相を帯びながら美しくかつ強く演奏される第三部は葬儀がまさに復活への希望の儀式であることを言おうとするのでしょう。
パウロはこのコリントの信徒への手紙一の15章でコリント教会の人たちを相手に復活について議論を仕掛けるのですが、すんなりとは理解しがたい論理展開を見せます。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(12節)と。この「死者」は「死骸としてのイエス」と言うよりも「すべての人間の死者」と考えます。ふだんは神によって導かれて生きていると信じるわたしたち人間ですから、ごくあたりまえに「復活」もイエスの復活があってこそわたしたちも復活できると考えるのではないでしょうか。ところがここでパウロは「死者の復活がなければ」と生身の(変な表現ですが)人間の死者の復活をキリストの復活に先行させて、それが「なければ」と言っているのです。それも15節、16節と2回も「死者が復活しないなら」と同じ言葉を繰り返し語っています。長年聖書を読んでおられる方もここに来てなかなか理解しにくいと感じるのではないでしょうか。なぜ死者たる人間の復活をキリストの復活に先行させるのか。まるで死者たる人間の復活がキリストの復活の条件であるかのように。
「死者たる人間の復活がキリストの復活の条件いやイエスの復活そのもの」。そう、まさにそうなのです。キリストが復活される場所はニコデモが用意した墓でも、あの空になった墓でもありません。キリストの真の復活の場所、それはキリストを信じキリストにあって生きまた死のうとするわたしたち人間のうちにあるのです。「かの墓」はわたしたちの「墓」です。わたしたちの「墓」でキリストは復活されます。わたしたちの「墓」とは「死に至る病」、絶望、虚しさ、欺き、そして傲慢や憎悪の争い、私たち自身を滅ぼすわたしたちの「罪」のすべてが積み上がった「墓標」です。しかしキリストはここに復活されました。わたしたちがキリストによって罪の重さを知りさらに罪を乗り越えるときキリストはそこに復活します。わたしたちの絶望のさなかにこの絶望の墓石を打ち破って復活されるのです。あの「空になった墓」はわたしたちの罪の絶望がもうわたしたちから取り除かれたことを意味します。死からわたしたちが復活しなければキリストはどこにも復活しないのです。これが「死者の復活がなければ」とパウロが言うことです。
何故、パウロはこの議論をコリント教会のある人たちに仕掛けたのでしょうか。それは彼らが「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合って」(コリントの信徒への手紙一1章12節)自分の信仰の正しさのみを主張するだけだったからです。コリント教会の彼らにとってはキリストの福音は「優れた言葉や知恵」(コリントの信徒への手紙一2章1節)でなければならず、キリストはこの「優れた言葉や知恵」によって「正しく死に正しく復活したメシア」であればよかったのです。それゆえこの「優れた言葉や知恵」には「死者の復活」は必要ありませんでした。彼らは「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」で十分だったのです。
しかしパウロは言います「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と。死者たるわたしたち人間が現実に復活しなければ、死者となられたキリストが復活は「絵空事」のような無駄となってしまうと。キリストの復活を証明するのは「優れた言葉や知恵」ではなくわたしたち人間の肉的生活が復活し新しい生活へと生きることであると。
わたしたちの「死の苦しみ」を乗り越えて霊なる人が復活します。「肉の愛憎」を廃棄して真の愛の命が復活します。それこそが死者からのキリストの復活です。あなたが「優れた言葉や知恵」を使うことによってでなく、あなたが「正しくある」ことによってでなく、ただキリストに続くことによって復活が起きるのです。
父なる神よ、痛み叫ぶこの身に命に満ちた主の復活を起こさせてください。アーメン。
(高岡清牧師)
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