【ご自宅用の礼拝内容を掲載しました】5月3日(日)
愛知県の緊急事態宣言を受け、しばらくの間、コロナウイルス感染拡大を避けるため大勢が集まるのを控えて、家庭礼拝を捧げます。再開につきましては、新着情報でお知らせいたします。
家庭礼拝をささげていますが、主日礼拝の時間中、吉胡伝道所は開いております。
どこにいても、讃美歌を歌い、聖書を読み、お祈りし、礼拝を捧げることができます。下記に高岡先生がつくってくださったご自宅用の礼拝内容を掲載いたします。
復活節第4主日礼拝
2020年5月3日(日)午前10時30分
家庭礼拝(この順序でそれぞれ礼拝をおささげください)
主の祈り
交読 詩編62編2~13節(旧約894頁)
讃美歌 6 つくりぬしを賛美します
聖書 フィリピの信徒への手紙4章10~23(新約366頁)
讃美歌 96 恵みあれしもべらに
使徒信条
説教「豊かさも貧しさも神から」高岡 清牧師
祈祷
頌栄 26 グロリアグロリア
黙祷
説教「豊かさも貧しさも神から」高岡 清牧師
「冠婚葬祭入門」という本で有名な著者の塩月弥栄子さんが対談でこんなことを言ってました。「お礼というのはね、相手のしてくれたことへの感謝じゃないのよ。大切なのは贈ってくださった相手の生きておられる生活や心に感謝することなのよ」と。贈り物をされたからとその物の価値に目を留めているだけではいけない。贈ってくださった方が「このわたしを心に思い起こしてくださった」という、その方の生き方に感謝し、思いを向けなければいけないということではないでしょうか。
いよいよ、「フィリピの信徒への手紙」の最終節にきましたが、伝道者パウロは手紙の終わりに先立って、いつものようにその教会の事情、ここではフィリピの人々の持ち味やフィリピならではの働きや活動のことを思い描き、手紙なのにまるでフィリピの教会の一人一人の顔に囲まれて喜ばしい笑顔で見送られる時のように感謝の思いをあらわしています。じつはこの時のパウロはなんと牢獄につながれていて身動きできない極限の不安や孤独の中で、死をさえ覚悟していたのでした。それというのは、使徒言行録19章にありますように、パウロはエフェソという神殿都市(アルテミス女神―多産と守護の神を祀る)での伝道中、女神の銀細工職人たちから攻撃を受け訴えられて投獄されてしまったからです。投獄の期間がどれほどであったかはわかりませんが、その時の牢獄にいたパウロに、フィリピの人たちは決死の援助を送ったのでした。
「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」(4-10)物資であったのか金銭であったのか、それはわかりません。でもパウロが伝道者として最初に神とキリストの福音を伝えたフィリピの教会のあのおとなしい人々が「立ち上がり行動を表してくれた」という出来事はたんなる感激以上のものだったでしょう。そんな感動をパウロはいくえにもわたって書き続けるのです。そしてフィリピの教会の人々の援助はこのときばかりではなかったようです。
「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(4-15~16)。「もののやり取りでわたしの働きに」とパウロが書いているのは、各地を巡ってキリストの福音によって教会を建てるというパウロの伝道の旅が同時に、当時の本拠地ともいうべきエルサレムの教会を援助するための献金を与えられて帰り献げるという目標があったからでした。そのパウロの思いを深く理解してくれたフィリピ教会の人々に獄中のパウロは無上の喜びを伝えてやまないのです。「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」(4-14)。フィリピの人々の心はパウロの思いと一つなのです。
でもこの「助けられるパウロ、助けるフィリピ教会の人々」が一つであるということ以上に、パウロはさらに大切なあることを言おうと力を込めます。二度も彼が言っている言葉に目がとまります。
「物欲しさにこう言っているのではありません」(4-11)「贈り物を当てにして言うわけではありません」(4-17)。よくわたしたちもかっこうつけて言います「いや、お金が目当てじゃないよ」と。それと同じような言い方のように見えますが、それとはちがいます。わたしたちの場合は相手から重く見られようとして感謝を求めます。せいぜいわたしたちが考えるのは「情けは人の為ならず」の気持ちです。「情けを人にかけてやるのは最後は自分に益が戻ってくるからだ」と。「物欲しさ」じゃない「贈り物目当てじゃない」とパウロが二度も言うのはもっと重要な一つのことを言いたいからなのです。それは「わたしたちにはもう神様から与えられた豊かさがあるではないか」と。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」これはわたしたちがモノや金銭との切っても切れない生活の中で生きなければならない在り方にむけて与えられた最高の励ましの言葉です。
「貧しく」と「豊かに」、満腹と空腹、有り余りと不足という正反対の境遇をパウロは同列に並べています。こんにち「格差」ということが問題にされています。それが問題になるのは世の中が格差の「ものさし」をモノや金銭でしか見なくなってしまったからでしょう。「働けど働けど我が暮し楽にならざりぢっと手を見る」と石川啄木が詠んでから百年以上経ちますが何も変わってないのです。しかしパウロはわたしたちの生き方をいかにも左右し振り回わすこの両極の貧しさにも豊かさにも、満腹してようと空腹であろうと、それに「対処する秘訣を授かっています」と言うのです。この「秘訣」とはなんでしょう。それは神から「授かって」いるというのです。それこそほんとうの「豊かさ」であり真実の「富」と言えましょう。
わたしはこの、神から授かった、どんな貧富にも対処する「秘訣」を「自由」と言い換えられると考えます。貧富の価値観に捕らえられていたら、それには対処できないでしょう。主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、また「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。わたしたちはパンや食べ物なしでは生きてゆけません。でもわたしたちはパンや食べ物にかしずき服従してはいないのです。食べ物の欠乏はわたしたちを脅かすでしょう。でもその脅威はわたしたちを滅ぼすものではありません。それは神のみ手ではないからです。何ものによっても脅かされることのない「自由」こそ神のみ手から与えられた信仰の在り方です。 18節に、読む私たちの心をも燃え立たせるような言葉をパウロは言います。
「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」。フィリピの方々よ、わたしは神からなにもかも与えられたと思うほど豊かになった、富んだ。なぜならあなたがたの贈り物がエパフロデトを通してささげられているから。この贈り物ほどにわたしを豊かな思いにさせるものは他にない。パウロは「香り」とまで言って、フィリピの人々の贈り物が、モノや金銭であるを越えて神にささげられた「いけにえ」と見なすのです。贈り物(献げもの)のことを「香り」と呼び、さらに「香ばしい」とまでつけ加えるとき、パウロは本当に嗅覚に香りを感じるほどだったと思います。ある応用心理学は人間の感情といちばん密接に関連しているのは嗅覚(匂いの感覚)だと言っています。良い感情、喜びや希望は嗅覚を敏感にすると言います。旧約聖書に神へのささげものを「焼き尽くすいけにえ」として匂い立たせるのも理にかなっているわけです。
献げるとは、祈りを献げることにほかなりません。神がもっとも喜ばれる献げものは祈りであり、祈りの伴わないとき、献げはただの「取り引きに」なってしまうのです。
祈り
神様、今日の主日も共に会堂で礼拝することがゆるされませんでした。でも、あなたはわたしたちと共にいると言ってくださいます。どうぞ一人一人の信仰を強め、離れていても互いに気遣い祈りあって主のつながる交わりとなることができますように。どうか神様がこの疫禍からわたしたちやあらゆる人をお守りくださいますように。
この祈りわたしたちの主イエス・キリストの名をつうじて祈ります。 アーメン
(各自加えてお祈りくださると幸いです)
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