説教20261018出エジプト記4章18~31 「出会いは神を共有する」
聖書(27-31節)
主はアロンに向かって、「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。モーセは自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げた。モーセはアロンを伴って出かけ、イスラエルの人々の長老を全員集めた。アロンは主がモーセに語られた言葉をことごとく語り、民の面前でしるしを行ったので、民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。
説教
モーセはいよいよ神の「わが民イスラエルをエジプト王のもとから逃れ出せ」という使命を負ってエジプトに戻ろうとする。「わたしは弁が立つほうではない」と最後まで尻込みするモーセに神は「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。・・・彼はあなたに代わって民に語る」と説き伏せ、モーセはついに神の命令に従って行動を開始する。ここに唐突にアロンという人物がモーセの兄弟が登場することに違和感を感じざるをえない。口下手なモーセに代わってこのアロンがイスラエルの民に語り聞かせ、エジプト王を説き伏せる役割を負うから、モーセは神の「しるし」である奇跡的事象を現し、アロンの「口となり・・・彼に対して神の代わりとなる」という役割分担の一翼としてアロンが登場するわけだ。とはいえ兄弟アロンの名が記されるのはこの4章の場面が最初である。神の「いるではないか」との語り口はいかにもモーセが兄弟アロンを知っていることを前提としているのにそのような記述がそれまでにないことはどこかのドラマの下手な脚本を思わせて訝しい気持ちになる。6章20節になってようやく系図に父アムラム、母ヨケベドとしてアロンとモーセの名が兄弟として読める。「じつはモーセには兄がいた」などというように後付けによる血縁がやや心もとない。じっさいモーセ自身についても2章冒頭を読み返せば「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ」と父母の名は記されずどこか「英雄譚」か「伝説」風だ。モーセは元来、神の側から送られた人間として描かれる。ほんらい人間は神を見ると死ぬとされているのにモーセは神の山ホレブで柴の火の中の神に出会い、出エジプト時「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(出33章11節)という。この神の側に近いモーセが後に現実へと歴史化される。そうした裏事情にモーセの神と民との間に立つ仲介者的な人物像が映し出されている。
エジプト行きを決断したモーセは義父のエトロに挨拶を済ませ、「妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して」ミディアンを立った。その旅は福音書のイエスが受難の十字架の死と復活を心に歩んだエルサレムへの旅を思い起こさせはしないか。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう」と神は言う。エジプト王の「かたくなさ」にモーセが苦しめられ、これに神のしるしである奇跡のわざをもって対決しなければならないことを告げる。
目を止めたいのは、一見文脈にそぐわない出来事だ。「ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた」というのだ。この時、妻の「ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された」のだった。神はモーセをエジプトでファラオに対決させようというのにどうしたことか。まさに、これは出エジプトという大きな歴史的対決の決意を直前にモーセに神が問われた試練だったのだ。それはモーセがイスラエルの人々を神の民として導く覚悟を背負うべき象徴的出来事である。多くの解釈では旅途中の病に襲われたモーセを妻ツィッポラが息子に割礼を行ってその血によって救ったといわれる。しかしこの出来事はモーセの出エジプトの闘いと無関係なものではない。モーセは死を覚悟したと想像できる。ちょうどイエスがエルサレム行きの途中、弟子たちに「誰でも私についてきたいと思うものは自分の十字架を負いわたしに従って来なさい」と告げたようにモーセは自分の死を背負い妻によって息子に割礼をしその血を証しとすることで、神の民であるイスラエルのための受難を覚悟したのだった。
そしてモーセは神に遣わされたアロンと出会う。それは神の山だった。このことは人間の出会いの真理をあらわしている。ほんとうの出会いとは神によって導かれ、神の計画のもとで出会わされるのだ。そして出会いとは神の祝福そのものであり、救いの合うことにつながる。モーセはアロンと出会い、二人は苦しむ人々を救う。それが彼らの出会いだった。神に繋がらない出会いはない。そして出会いは互いに愛し、救い、助け合うことにほかならない。
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