説教20261004 マタイによる福音書21章18-22節
「信仰のある生活」
ー希望は実現を疑わず
聖書
朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
「いちじく木」の寓話である。読みようによっては心に理不尽さがぬぐい切れない。「せっかく生きている木を枯らすなんて・・・」と、いや核心はそんな「殺生」の問題ではない。イエスが木を枯らした後に、弟子たちが驚いてイエスに訊ねた問いにヒントが含まれている。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」。同じ言葉がその前のイエスの呪いの言葉の後にもそのまま書かれている。二回も言われる「たちまち枯れて」という言い方には「あっけなく」とか「あえなく」とか「跡形もなく消える」様子が想像できる。イエスに呪われたとたんに生木だったいちじくは一瞬にして枯れた。いや、消えたのだ。夢のように有散無消。さっきまでそこにあったことが、何も思い出せないくらいに無くなった。しかもいちじくといえば古代ローマのスキピオ将軍が「いちじくが豊かに実るカルタゴを奪おう」と兵を鼓舞してハンニバルを敗ったくらいに「豊かさの象徴」だった。これはそうした「豊かさや幸福の虚無」を突きつけられてわたしたち人間が、イエスに問われていることを如実に示した出来事だ。もう一つ言葉は「葉のほかは何も」と「実もないのに葉っぱばかり」とも読めるような言い草だ。
イエスがエルサレムに入城した翌朝早くの出来事である。この時、イエスの心は厳しさに張りつめていた。「父の家」である神殿を深く心に留めていたからだ。第一日目には入城後、真っ先に神殿に入り、そこで両替や鳩売りを生業として商売をしている者たちを荒々しく追い払った。父である神への礼拝や祈りが献げられるべき神殿があたかも「強盗の巣窟」のように変えられてしまっていることにイエスは怒りを抑えることが出来なかった。このように、エルサレムに入ったイエスがその当初から内に抑え難い怒りの感情を募らせていたと考えられないか。それはたんなる激怒ではなく心に痛みが疼くような「悲憤」と言うべきものだったと想像される。第二日目もやはりその悲憤の翳りは神の子にまとわりつき、目覚めて後も拭いきれない苛立ちとともにイエスは神殿へと向かっただろう。
その歩みもなかば、イエスはこのいちじくの木の場所にさしかかった。時にイエスは空腹を覚えたという。食べられる実を探していちじくの木に近寄ったイエスだったが、その木には「葉のほかは何もなかった」。たいそうに葉を大きくまた多く繁らせていたと思われる。見栄えばかりか、このいちじくの木は。いかにも豊かで人目を惹いて沢山の実りをつけていそうであったことだろう。そんな豊穰感あふれるいちじくの木だったが、見回してみたもののイエスは実一つも見つけることができなかった。イエスは「そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」のだった。いささかの理不尽さが心に疼く。というのも実の一つもつけていないからといってその木を情け容赦なく枯らしてしまうのはどうなのかという思いからである。ヒューマニズム的倫理からすると「無益な殺生」そのものだが、ここでマタイはいちじくの木を実りをつけなかったイスラエルの象徴として表す。枯らされたいちじくの木はファリサイ派やユダヤ教の祭司たちのことだった。ダビデの子、メシアのイエスが来られたにもかかわらず彼らはなんの実りもつけなかった。イスラエルを支配するユダヤ教の祭司、長老、律法学者、ファリサイ派は「葉」ばかり繁らせるように掟や戒め律法ばかりは大掛かりにするものの、その実りである内実の信仰は何一つ成らせてはいないのだ。果実は時を知り、時節にふさわしく実りをつけるものだ。ここでイエスは人間に「時」を問われている。あなたはメシアの「来るべき時」を知っているか。いちじくは時間にふさわしく実をつけてこそ植えられた意味を持つ。いちじくの木は「実るべき時」を知るべきなのだ。それをイスラエルは知らず、葉という外見すなわち律法や形式ばかりを拡大し世俗的権力だけを築いてきた。葉ばかり豊かや幸福は消える。
この後、いちじくの木の枯渇の季節を見た弟子たちは驚嘆して言う。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と。「たちまち枯れ」の表現は「虚しく消えた」と言い換えられる。律法による宗教権力は虚しく消えた。神のために実らぬ幸福も「たちまち」費え去る。こうしてイエスは言う。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」と。この言葉は「あなたは時を知る人間となれ」と教えている。「時を知る人間」とは「時の所有者」であり「時の支配者」である創造主の神に信仰によって奉仕する人間のことだ。時は神につながっている。誰もこの「時」から離れることはできない。人は時の中に生まれ、時の中に死ぬ。しかし時の中に働き、愛する。だが具体的に言うなら、時の中に生きるということは「希望を持って生きる」ということだ。そして希望は神にむけられてこそ「実り」を持つ。
イエスは「信仰を持ち疑わないならば」と言う。これが希望のありかただ。希望は真剣であればあるほどその外見を装わない。神はわたしたちに「こういうふうに信仰せよ」とか「立派な信仰」とか「完璧な信仰」を持てと言わない。それが「信仰を持ち疑わない」姿である。信仰を持ち疑わない希望は素朴な生活にこそある。信仰を生活に繋ぎ留めるものは時間の中を歩まれるキリストへの希望に他ならない。
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