説教202600916マタイによる福音書21:12-17

「神殿 献ぐべきは祈り」

 聖書

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

そして言われた。「こう書いてある。

 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』

 ところが、あなたたちは

 それを強盗の巣にしている。」

 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。 

説教

 長い歩みを経て、ついにイエスは「父の家」に帰った。神殿である。とはいえルカによる福音書2章41節以下に12歳のイエスの少年時代には家族そろっての神殿への礼拝が「毎年」と書かれているように、イエスは恒例行事としての「神殿礼拝」をないがしろにしてはいなかっただろう。ただマタイによる福音書はイエスの洗礼と伝道の開始の時以来、神殿との関連を書いてはいない。ガリラヤや遠い異境への神の国の宣べ伝えの歩みの間中はエルサレムの神殿にはしばらく足が遠のいていたかもしれない。そしてようやく民衆の「ホサナ」の賛美を受けつつイエスはエルサレムに足を踏み入れたのだった。

 彼が真っ先に赴いたところが神殿であったことはその思いの熱さを表わしている。イエスは神の子として「父の家」に帰ったのだ。ちょうど人々が肉親と再会する里帰りのように。ところがイエスの視野に真っ先に飛び込んできたのはあたかも神殿を市場と見まごうような商売人たちの群れだった。聖なる庭は「売り買い」や「両替人」そして「鳩を売る者」たちでけたたましくごったがえしていた。「売り買い」とは持ち物を売って献金用の金銭に代える者たちのことだろう。礼拝に来た人々はひどくたたかれて換金したことだろう。「両替人」は海外から礼拝に来た者たちの海外貨幣を献金用のユダヤ貨幣に替えてやるために法外な手数料を取る輩(やから)のことだ。「鳩を売る者」とは産後の清めや皮膚病の清めのために献げる鳩を高く売っては再び鳩が舞い戻って何回も売りつける者だ。まるで詐欺ともいえる商法だが、さらに上がある。そんな彼らから上納金をはねる親玉すなわちユダヤ教の祭司長たち自身である。神殿は内側まで腐れ切っていたのだ。そんな献金をめぐる取引の阿鼻叫喚の中でまさに「父の家」はその真実をいやがおうにも奪われ汚されて人狼が跋扈する狩場へと変貌させられていたのだった。

 そのとき、ひとつの怒声が上がった。イエス自身の声だった。それはどれほど悲痛な叫びだっただろう。

 「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。

 教会で祈りの声が聞かれないことほど虚しく打ちのめされることはないだろう。求めでも願いでも打ち明けの思いでもよい。祈るとはそこに神がいることなのだ。祈りは神に向かい、ただ神に聞く。イエスが神殿を「祈りの家」と言うとき、彼は「祈り」こそ神への真実の献げものと言っているのだ。

 イエスがもっとも愛された旧約聖書の言葉は何だろうと考えるとき、次の聖句を思い浮かべずにはおれない。それはマタイによる福音書9章13節の『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉だ。これはホセア書6章6節の言葉から採られたであろうが、他にもサムエル記上15章22節の他、イザヤ書1章、詩編40編、エレミヤ書7章など旧約聖書の多くの箇所に同様の文脈が記されている。マタイによる福音書12章7節でもイエスは全く同じ『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』を、弱い人々を差別するファリサイ派に対して突きつけており、イエスがどれほどこの聖句に思いを込めていたか想像するに難くない。

 イエスがこの『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉を真摯に心に留められたのは病者や弱者と共に過ごす時であっただろう。だがそれがもっともイエスの心を強く動かしたのは彼がご自分の「父」を思って祈る時であったに違いない。なぜならこの言葉は、わたしたちが「父なる神」の求めに一体どのように応え何を献げたらよいのかという真実の「献げ」のあり方を教えているからである。

 エルサレムに入城したイエスへの賛美「ホサナ」は神殿にも響きわたり、寄り集った目や足の不自由な人々にイエスは癒しを与えたのだった。それは神殿にふさわしい、もっとも神殿らしい光景だった。しかしじつは律法ではこうした人々はなんと汚れた存在として神殿内部には入ることが禁じられていたのだった。必然、このもっとも神殿にふさわしいイエスの「いやし」に「腹を立て」た一群があった。この神殿を根城にし宗教業務を行っていた祭司長や律法学者たちだった。神殿でのイエスの行いを巡って彼らは真っ向からイエスをなじった。まさに神殿にもっともふさわしい神の子のイエスを。それはまさに神殿を食いものにする者たちの敵意むきだしの姿だった。神殿の「父」を見ようとせず、金にまつわる規定まみれの献げものや利権の権威にばかりに血道をあげる祭司長や律法学者にとっては子供たちが歌う「ホサナ」の賛美までも憎々しく思われたにちがいない。神殿にて「ホサナ」は禁句とまで言うのか。

 「父」が喜ばれるものとは、律法によって目的をゆがめられた「いけにえ」ではない。その「いけにえ」とは「自分は神の要求を成し遂げたぞとわめく自己顕示」そのものにほかならない。それは神に献げられたものでなく、まさしく人間に献げられたものに相違ない。神が求められるものは栄誉のしるしでもなければ「人間の誇り」でもない。「律法を利して自己賛美に突き進む栄光のしるし」ではないのだ。

 献げるべきは祈りである。わたしたちは悲しいときに祈る。辛いときに祈る。力及ばないときに祈る。傷ついた人を知って祈る。助けたいときに祈る。謝りたいときに祈る。感謝したいときに祈る。励ましたいときに祈る。

 信じようとするなら祈ればよい。愛したいなら祈らざるをえそこに神は共にない。希みつづけるなら祈りが生まれる。教会に、信仰生活に、神の前にもっともよく似合っているのが祈る姿ではないだろうか。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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