説教20260816出エジプト記4章1-17
「かたくなさを越えて」
聖書(1-8節)
モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。
説教
神の山でモーセが神の炎と出会うところから始まる出来事は何を言おうとしているのか。その答えはこうあらわせる。「神が存在するとき、すべての人間は動かされる」と。「わたしはある」と名乗る神は自身のあまねく存在によって人間を選び導く。神の存在は否定しがたい「かたくなさ」であり、人間のどのような「かたくなさ」をも屈服させて人間を導かれる。
モーセは羊たちに導かれ、知らずと神の山ホレブすなわちシナイ山に導かれた。モーセにしてみればはぐれて未知の存在に迷い込んだようなものだったが、そこで彼は忘れていた自分の本心をあからさまに見とおすような大きな存在に出会った。いつまでも消えない炎の中から語るその声はモーセの同胞であり神の約束の民であるイスラエル人を苦悩の地エジプトから救い出させと呼びかけるのだった。すでにそこから逃げ出してもう幾年月、家族も養う中でモーセに再び一度エジプトに戻れ、そして人々を王の手から助けよと言う。しかしそれはモーセにとってあまりにも重すぎる命令だった。そんな力は自分には、と訴えれば「わたしは共にいる」と返し、名を訊けば「わたしは在る者」との答えに突き当り、モーセは心は開かなかった。
振り返るとモーセがこの「わたしは在る」と名乗る神に出会って以来、彼の心は閉ざされてただ尻込みするばかりであることに気がつく。描写は4章の1節ではっきりと「逆らって」と明記するほどに彼は神の言うことを聞かない。モーセが神に対して発する「それでも」は10節にも繰り返され、まるで事実を眼にしながら絶対にそれを認めようとしない「かたくな」な人間の不信仰をありありと描いていると言ってよいだろう。神がモーセの内面を突き、「わたしは在る者」という真実の現実として人の眼の前に立とうとも、神を避けてその言葉に従おうとしない人間の姿をモーセは象徴している。
じつは出エジプト記はこの「かたく(頑)なさ」をめぐって神の存在の絶対性を描いた物語ではないかとわたしは考える。神の命令に「逆らう」モーセがかたくなに自分の檻の中に閉じこもってすぐには神の命令に従おうとはしなかっただけではなく、エジプトの王(ファラオ)もまた「かたくな」なのだ。神の要求である「イスラエル人を解放せよ」にファラオはかたくなに応じようとはしない。人口数も増したイスラエル人はエジプトの労働力ではあるが同時に目を離せない「危険分子」でもある。彼らをエジプトから排除するほうがまたエジプトにとって得策であるのだがここで、エジプト王は頑として首を縦に振らない。まるで親の言うことが解っていても聞こうとしない子供のように。そのために神がエジプトに行う「10の災い」は古代世界の「災いリスト」のように克明に描かれているとはいえ、じつはそれらはファラオ対モーセの「かたくなさ比べ」の物語と言えないか。さらに言えば、出エジプト記の中では神もまた相当に「かたくな」だ。ファラオに押し返されたモーセの泣き言を神は聞き、それに対し次から次へとたゆまず災いを下す。だからこう言える。10の災いは古代の災害のたんなるリストではなく、神の「ある」という現実存在の強固な実証であると。だからこの神はエジプトの「かたくなさ」にその「存在」をもって対決する。
さらに描写はこう続く。モーセのかたくなな拒絶に神は二つのしるしを見せつける。それはモーセの「手」をめぐる奇跡のしるしだ。ひとつは手に持つ杖を投げては蛇に変えてモーセがそれを掴むとまた杖にもどる。蛇は「恐るべきもの」だが、それを手に持てばモーセの力となる。モーセの手が表わすものは神の力である。モーセが手をふところに入れてから出すと「真っ白な」皮膚病の手となる。またもう一度戻して出すと治っている。これは神はかならず存在することの「しるし」だ。さらにファラオの「かたくな」に対して神はナイル川を「血の川」に変えるとのしるしを告げさせようとする。以後の「災い」すなわち神の存在(現臨)の予告である。
しかしついに人間であるモーセの実体が露わになる。神の攻勢にモーセは最後に「口」を逃げ口上に使う。「口が重い」、「舌が重い」。これも「かたくなさ」である。それは現代人の悩みと変わらない。だがこれこそ神が「存在」であるのに対して人間が「存在」ではないことの決定的証言である。モーセは望むところの自分ではありえない。人間は自分を存在できないのだ。この「口の重さ」は自分が思いどおりにならない自分に悩む「かたくなさ」の現実だ。人間の「かたくなさ」は自分自身を否定するのだ。しかし、アロンがいる。自己の否定に隣人が存在する。モーセの口は隣人によって補われなければならない。
神はモーセに神が絶対的に(かたくなに)「存在」されることをエジプト王に告げよという。ここに真実がある。人間は自己の存在を担えないが神の存在を伝えることができる。そのとき彼も存在するのだ。
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