説教202600705マタイによる福音書20:29-34

「信ぜよ、神の歩みを止めよ」

 聖書

 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

説教

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(20章18,19節)。3度にわたるエルサレムでの受難と復活の預言を弟子たちに告げつづけられたイエスの旅も、すでに終盤にさしかかっていた。弟子たちもエルサレムの近いことに心を揺り動かされ、彼らの主がいよいよメシア・救世主としてこの世に君臨することさえ想像し、そこでの自分たちの身分の先行きを静かに案じたりしていた。このようにエルサレムへと先立つイエスに従う弟子の集団は暗に声を押し殺して歩きつづけていたのかもしれない。

 だが、エルサレムを目前にするエリコという町での出来事だった。進みつづけるイエスの一行に向かって突如、ある大声が静寂の沈黙を突き破るように響き立ったのだ。多くの人々が静かにイエスを見送るなか、その大声だけが人々の心を不安に掻き立て、苛立たせるほどわめき、騒がせてやまなかった。目を向けるとそこに二人の盲人があらんかぎりの思いを込めるように大声を上げていた。これからメシアが気高い思いを心に秘めて厳粛なみわざへと歩を進めようというのに、その叫びは空気も読もうとせずまったく場違いに、自分たちの気持ちだけをがなり立てているとしか見えなかった。

 「群衆は叱りつけて」主のエルサレム入城の厳かさを汚さないようこの凄まじい叫びを制止しようとした。しかし制すればするほどその叫びは激しくなっていく。よく聞くとそれはこう叫んでいる。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と。しかしこの呼びかけは、イエスは弟子たちからでさえ一度も聞いたことはなかったものだった。「ダビデの子」とは当時社会で言い慣わされた言葉、「メシア・救世主」の呼称だったのだ。場違いな騒音とばかり思っていたその叫びは、今やこれから生起せんとするメシア・救世主にむけてのまったくふさわしい呼びかけだったのだ。それまでの弟子の誰も呼ばなかった「ダビデの子」という名が、世間から「罪びと」と蔑まれ卑しめられ排除されている二人の盲人によって叫ばれているではないか。思えばこの直後のまさに「エルサレム入城」のさなかにも「ダビデの子にホサナ」と群衆たちがイエスを迎え入れる。

 旧約聖書のある物語を想わずにおれない。まさにここはエリコ。それは「エリコの戦い」だ。かつて出エジプトの40年の彷徨いの旅を終え、約束の地カナンに入らんとしたイスラエル人が踏み入った最初の町「エリコ」に対した時、彼らは「叫び」によって町を落とした。この福音書記者マタイの脳裏にはこの物語があったのか。剣や矢によらずイスラエルは「叫び」によって約束の地を獲得した。イエスがエルサレムのに向かう時、あらゆる沈黙を破ってメシアにすがる叫びこそがその固い城壁を打ち崩すのだろう。

 「叫び」によってその二人の盲人はイエスに対して何を訴えたのだろう。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。「憐れむ」とは何か。イエスは彼らの叫びに向かい、「何をしてほしいのか」と聞き返した。二人は答える、「目を開けていただきたい」と。そこでは彼らは最初から目を開けてくれるようにと叫んでいない。彼らはまず「憐れんでください」とだけ叫んだのだ。

 叫びが何なのかをもっともよく表わすもの、それは「憐れみ」の要求だ。それは孤独と哀しみに打ちひしぐ存在が発する最初の叫びだ。「わたしを憐れんでくれ」。それは具体的な個々の願いや求めではない。「叫び」は「憐れみ」を求める。「キリエ・エレーソン」。それは自分たちへ注がれる「まなざし」を求めた。「わたしたちのほうに振り返ってください」。そう叫んだ。他人のまなざしを見ることの出来ない盲人であった彼らはなおさらそれを求めたに違いない。わたしたちを見てくれ、わたしたちを知ってほしい。それは彼らの訴えを越えて、こんにちのわたしたちの「叫び」でもある。誰かに我が存在を認められ、生きるにせよ死ぬにせよ目を留められることこそ、その存在の証明なのだ。人間の存在証明とは彼の業績でも足跡でもない。他者から神から自分を見つめられ、知られ、覚えられ、認められることだ。

 わたしたちが神にむかってする祈りこそはまず「叫び」でなくてなんだろう。この叫びはメシア・救世主、イエスへの思いであり祈りであり賛美にほかならない。だが叫びはイエスに聞かれる時、叫びのままではいない。

 「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」と福音書は書くではないか。ここに「叫び」は「願い」から「行動」となる。イエスの「何をしてほしいのか」に対したとき、彼らは「目を開け」ることを表明する。それは人生へと乗りだすことだった。そしてさらにこの人生は「従う」ことへと進む。これは生まれたばかりの赤子の精神がまったく未分化なただの衝動であることから始まりやがて豊かな喜怒哀楽の感情や希望や決意などの意思へと発達することに似ている。だから信仰の原初は「叫び」でよいしメシアに「叫ぶ」ことから生まれる。

 叫びを何と言いかえられるだろう。それは神への挑戦とも試みと言ってもよい。神を試せ。神よ、あなたはこの叫ぶわたしをどのように救うのか。神よ、このわたしの試みに応え、あなたの答を出せ。そしてわたしはあなたの答に運命をかける。

 この二人の盲人はメシアに挑戦したのだ。メシア・救世主の歩みを止めてまでイエスが神の子であることを試み挑戦した。確かに聖書は「あなたの神である主を試みてはならない」と言う。だが罪びとであるわたしはあなたに叫ぶ。わたしの前を通り過ぎようとするあなたがわたしを見てくださるだろうか叫ぶ。神よ、あなたの十字架と復活の救いはわたしを見ているか。あなたが「父よ、あなたにゆだねる」と叫ばれたあの叫びはわたしの叫びを知っているか。そのあなたの憐みはわたしの試みを突き破り、そのまま信仰へと変えてしまうことだろう。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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