説教20260621出エジプト記3章1-12

「存在証明!神なんじと共にあり」

 聖書(1-12節)

 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

説教

 この3章から始まる出来事の「前振り」が直前の2章の終わりに、こう書かれています。

 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」

 モーセはこのミディアンの地に逃れ着いてからその地の祭司レウエル(後にはエトロとある)と親交を深め、その娘ツィポラと結ばれた。「それから長い年月」とあるように、モーセは自分がヘブライ人であることも遥か遠い過去に忘れ去ったかのようだった。彼は充実した日々を送り、レウエルから託された羊飼いの生業によって生きていた。たしかに彼はある意味平穏で充足した日々を過ごしていたのだ。実りある仕事に愛する家庭にモーセの人生は満たされていただろう。ただ、彼には気づいてなかったかもしれないある問題があったと思う。後に彼はそれを真剣に神に問わざるをえなくなるのだが。「わたしが何者だと」。

 その長い年月が流れたある日、いつものようにモーセは羊らを追っていた。ところがその群れを追ううちにモーセは知らずと「荒野の奥」へと辿り着いてしまっていた。そこは「神の山」として知られている「ホレブ山」だった。(祭司エトロ(レウエル)はこの山の神官であったかもしれない。)

 日本の伝承に「布引伝説」なるものがある。「牛に引かれて善行寺参り」として知られている話だ。強欲な老婆が川で洗濯中、白布を不意にやって来た牛の角に引っ掛けられ、強欲ゆえに取り戻そうと意地でも離さない白布に引っ張られるうちに長野の善光寺までやって来て、そこで観音菩薩の教えに触れて改心する、というような伝承を想わせる。

 だがモーセの場合、もう少し彼の人生に分け行って考えることができるだろう。このホレブ山で彼は大きな問いを投げかけられる。彼がこの地ミディアンにいること、そこで日々を過ごし人生を全うせんとしていることは結局のところ無意味ではないか。何故なら彼モーセは「逃げて」来たのだから。逃れてきた場所でモーセは自分の人生を全うして生きることはできるのか。無論「逃げる」ことにも重大な必然があり、逃げずにいたらそこで終わってしまうこともある。逃げて「無意味」を背負いこむことにも重い意味はあろう。だがモーセの心は叫ぶのだ、「わたしは何者だ」と。

 神の山「ホレブ」の山中である不思議な光景をモーセは見た。それは、彼が腑に落ちない自分の人生をどこかで感じているのと同じくらい、これまた腑に落ちない光景だった。それは「柴の間に燃え上がっている炎」だった。その中に神の使いが見えたという。さらに腑に落ちないことに、「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」のだった。柴は木切れで最後は消えてしまうものだのに一向に消えようとしない。それはモーセの内心を突くように燃えつづける。無視しても無視できない同胞への痛みの燃え上がりのようにか。

 いやそうではない。燃えつづけているのはモーセではなく神の決意に他ならない。自身と深い約束を交わし、神の誓いを信じとおした人間たちの子孫のその惨状と苦悩の叫びに向かって愛と憐れみを燃やさずにおれない救いの決意だ。それだからその炎は燃え尽きることをしない。「ホレブ」とは「陽射し」とか「(日照によって)渇いた」などの意味があるという。絶えることのない神の救いの情熱と言っていいだろう。人によってこの燃え尽きない炎を「石油」と説明する人もあるが重要なのは炎の中に「神」がいたという記述である。

 神はモーセが「道をそれて」来たのを見落とさなかった。それは彼が自分の人生を踏み越えた一瞬だった。もちろんそれはモーセが神の炎に動かされた行為だったが、この一瞬の一歩のモーセについに神はその燃える柴の中から語りかけた。「モーセよ、モーセよ」。相手の名を2回を繰り返す呼びかけは特別な相手への神の「告白」を表現する。それはある意味「秘密の開示」と言える。神の燃える思いがモーセにだからこそ語りかけようとし、モーセにだからこそ求め、そしてみずからを明かして言う、「わたしは聖なる神だ」。近づくな、履き物を脱げ。これこそ絶対他者の証拠である。だが神は絶対他者であるにもかかわらずモーセに、人に極めて近く露わに接近し、事を告白し明らかして言う。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。ついに神は素性を告白した。そして神は言う、「わたしはあなたの父祖たちと約束した者だ」。だからその約束のためモーセよ、あなたがた彼らの子孫のために立て、今の地エジプトから救い出し、約束の地、乳と蜜の流れる地へと導き上がらねばならない、と。それはまるで堰を切った怒涛のように激しく強固な神の決意の告白といえる。神はイスラエル人の叫びの声を聞き、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

 しかしモーセにとってこの神が語り告げるイスラエル人の苦悩の惨状はまさに彼が目をつぶりとおしてきたものに違いなかった。逃げ出してきたその出来事そのもの、無視してきた事、自分じゃどうしようも出来ない事だった。しかし神の言葉はその一言一言が、モーセの縫い閉じられていた平穏の高枕の糸をいやおうなく断ち切り、イスラエル人の現実へと揺り起こし目覚めさせようとするのだった。

 モーセに向かって神は言う、「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。だがモーセは動かない、動けない。

だから、どうしろというのだ。そうは言っても、神よ、 「わたしは何者でしょう」。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。イスラエル人をエジプトから逃れさせ、約束の地へ導き出すって。わたしの弱さを知ってのことか、わたしの無力さを知ってのことか、神よ、わたしにはイスラエル人のために何もできることはありません。そんな使命の資格も力量も私にはない。結局モーセは言う、「わたしはわたしでいられない。わたしでいる勇気がない。自分の人生に踏み出す力がない。わたしは何のアイデンティティー、存在証明も持てない」と。

 しかし神はここで、こう言った。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。そうだ、あなたは小さく、力もなく、器もない。だがモーセよ、あなたの存在証明とはこれだ。使命と人生を生きていくあなたの存在証明、それは「神が必ずあなたと共にいる」ということ、それだけなのだ。あなたがあなたであるために「神が必ず共にいる」のだ。それだけがそれこそが人生にたいして、使命にたいして最大の力となる、最大の武器となるしるしだ。

 わたしたちのアイデンティティー、人生の存在証明は何だろう。それは力でもなく、モノでもなく、金銭でもない。頭脳的な能力でもなく、人柄の良さでもない。わたしたち人生を生きるとは、自分を生きるとは「神が必ずわたしと共にいること」を知ることに他ならない。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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