説教 20260607マタイによる福音書20章20-28
「過ちを認める勇気 過ちをゆるす愛」
聖書
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
説教
最近、インターネットのあるサイト上で「炎上」のような一連の書き込みを見た。ある人がそのサイトに「小説」らしきものを投稿したのだが、どうもそれに対する評価が書いた人にはかんばしいものではなく、好評よりも批判やネガティブな評価が多かった。というよりその著者にはマイナス評価のものが特に目についてしまった。ここではその内容は書かないが、たしかに読む人によっては好き嫌いの出るだろう内容ではあった。ただ「著者」は思わぬ「酷評」や(上から目線の)「高評」が投稿されたショックからか冷静さを失って真っ向から自分への批評に対して反論の限りを尽くしてしまった。そうするとそれまで無言でこの炎上を静観していた人も加わっていろいろ著者に感想やアドバイス(どちらかと言うと)「注意」を書き込んできた。著者を理解する人もいたけど彼にとっては批判の書き込みのほうが神経に触るらしく、サイトはもっぱら「著者」対「批判者」、というか孤立的に自論を主張しまくる著者と彼をたしなめる「賢者たち」の様相となっていった。互いに異なる意見をぶつけ合う場では誰も自分の考えを間違っているとは思わないだろう。そこはまさに正論どうし正義と正義のぶつかり合いを承知の言い合いの場である。そんな中で著者のこんな言葉が心に残った。「わたしの言ってること間違ってませんよね」。・・・・
イエスとその弟子たちがエルサレムに到着する直前のことだった。かねがねイエスが自身の口で「エルサレムで」と告げていたその町を目前に、いよいよある弟子たちの心に一つの願望が妄想のように煙り立ちこめていた。…ついに自分の主であるイエスがエルサレムで王座に就く時が来た。天使たちと共に世の王を下しその座に取って代わられるわが主イエスには、この自分をぜひとも第一の側近にしてもらいたいものだ…。そんな妄念を抱いてイエスにそっと近づいた人影があった。それはゼベダイの子ヤコブとヨハネそして彼らを率いる母親だった。彼らはかつてイエスがガリラヤ湖畔ではじめて弟子を召命したあのシモン、アンデレ兄弟の次に選ばれた兄弟たちだった。
母はイエスに言った、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。わが息子らが他のどの弟子たちよりも上の地位に就けるようにと願い出たのだった。三年にわたり教え続けてきた神の国の福音からは程遠い邪念の燻ぶる願いを告げる彼らの顔を見つめつつ、イエスは悲しみともやるせない焦燥とも思える感情を覚えたにちがいない。
しかしイエスはこう返した、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と。「自分が何を願っているか、分かっていない」という言葉はイエスにしてみれば珍しく厳しい言葉といえる。イエスは癒しや助けを願い求める人間にはすぐに応え、時にはこの後の癒し出来事にあるように「何をしてほしいか」と訊ねてそれを与えた。そこには人間の切なる願いとそれへのイエスの応答の明確で強い呼応と対話があった。だがこの母親と息子たちの願いに対してはそれはなかった。
「主イエスの直近に座れるとおっしゃってください」。それはじつはイエスへの求めと言えるものではなかった。イエスを信じる願いではなかった。彼らの願いは相手がイエスでなくともかまわないたんなる自分のための「要求」だった。主イエスに従って行くことを願う求めではなく、主イエスを「わが出世」の足掛かりとするだけの要求だった。信仰に目を向けるなら、主イエスを「ただ信じる」のではなく、彼らは人より上位の「優秀な信仰者」あるいは「有能な信仰者」また誰よりも「善い信仰者」であることを求めた。それは「完全者」のようなものであり、誰からも批判されず中傷されない「絶対者」とも言える存在だ。つまり、自分以外のすべての人間を見下すことのできる「神の側近」といえよう。
しかしそんな彼らの願いに対しイエスは「杯」という言葉を示される。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。それは十字架のことだった。人間の罪を背負って死に、贖いの救いを与えることだった。そしてこの「杯」とは神があなたに与える唯一つの生き方であり、また「つとめ」だと言える。神はこの杯を人間に与えるとき、神は「わたしのためにあなたを選ぶ」と呼びかけられる。神と向かい合い、応答することだ。神と向かい合うこと、それは「絶対者」になることではなくまさに「仕える者」となることである。イエスはこの世で絶対者となることを求める親子たちや彼らに腹立てる他の弟子たちに異邦の地上的権威者の姿を示して、主に従う人間、信仰者の本当のあり方を告げられる。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(25節以下)。それはイエスがエルサレムでの受難にまさに入らんとする時の言葉だ。これはじつは「十字架」が何であるかを明らかにする教えである。イエスは「十字架」とは「仕えること」であると言うのだ。そしてイエスの十字架の死はイエスひとりのものならず。イエスを信じる信仰者ひとりひとりの「杯」すなわち十字架のことを言っている。仕えるとは隣人のためにあのイエスのように十字架とその死を負うことである。隣人を愛することそしてあのイエスのように隣人の罪を背負って死ぬことである。
そのゆえに十字架は自らの「過ちを認める」姿勢につながる。なぜなら十字架を背負うことはへりくだることだから。それは「罪を告白する」ことである。だから仕えることは「過ちをゆるす」ことである。身近で隣人に仕えるいちばん重要なことは何だろう。それは「聞く」ことだ。そして「聞く」ことは「自分の過ちを認める勇気」から来るのである。この勇気が無ければ、わたしたちは絶対者になって責めたり裁いたりするだろう。わたしたちの十字架はこの日々の生活という「ゴルゴタ」の中にある。
わたしたちはもはや「正しさ」にしがみつくことはできない。わたしたちが隣人に対して自己絶対化をし、自分をまったく正しいと主張し、自分は何も間違っていないと考えるとき、じつはわたしたちは「罪」を犯していることに気付いていない。そんなわたしの存在の中に「杯」を置けとイエスは言う。なぜならそんなわたしたちの罪の真っ只にイエスは十字架を背負って死なれたのだから。
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