説教20260517使徒言行録2章1-8 ローマ5章1-5
「希望は復活させる」
聖書
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。(使徒言行録2章1-8)
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5章1-5)
説教
キリスト教は唯一神教と言われる。日本の、あらゆる自然に宿る「八百万の神々」と異なり、万物を無から創造し導き、一人の神としてわたしたち人間と人格的で対話的な関わりを持たれる存在である。一対一で向かい合い、人間と契約、約束の関係を築く神である。ところがキリスト教ではその唯一の神をまた「三位一体の神」とも呼ぶ。平たく言うと「三つの顔を持った神」だ。この呼び方はじつは聖書には無く、キリスト教が誕生して後年に様々な信仰グループが生じて神学が発達した中から作られた用語である。「三つの顔」はまさに「父・子・聖霊」のことで、何故神を三つに分けるかと言うと、それによって「イエス・キリストの救い」がキリスト教の核心として表されるためといわねばならない。つまり「イエス・キリストの贖いの死と復活」こそを神による真の救いであると信じるために神は三つに分けられた。「父なる神」は創造主であり「子なる神」は救世主といえる。ただ三つめの「聖霊なる神」は決まった言い方はなく、「助け主」とも「励ます神」とも言われるが人間の側から言えば「信じる人間の内外に働きかけ彼を動かす神」と言ってよいだろう。それは信仰者の内的動機たとえば「勇気」や「決断」として現れることもあるが、外的な偶然や運命的な巡り合わせのように信仰者を導くこともある不思議な存在である。ただ、こうして三つの神と言っても神が三人いるわけではない。一人の神の三つの面(顔:ペルソナ)だ。父はわたしたちを創造する。しかし罪に陥り神に背くわたしたちをイエス・キリストは十字架の死によって贖い、復活によって神の国を約束された。だから今を生きる信仰者はキリストの約束に従って日々を聖霊の導きに動かされて生きる。
「聖霊降臨日」。それは「教会が誕生した日」とよく言われるが、加えて言うと「信仰者が人生の中心に出現した日」である。この聖霊降臨日を使徒言行録5章初めは「五旬祭」(ペンテコステ=50番目の日)と言う。それはキリストの復活(イースター)より50日目だから。時をたどって見ると、イエスは過越祭の金曜日に十字架に架けられて死んだ。しかしその三日後の日曜日に復活した。その後40日間にわたって弟子たちと共に生活し、そして昇天した。その後は弟子たちは師が去って飼い主のない羊のような虚ろな日々を過ごさねばならなかった。ただ彼らにはイエスが言い残した言葉がその心の中に疼いていたのだった。
「父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」(使徒1章4~5)。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1章8)。父の約束されたものとは何か、聖霊による洗礼とは何か、地の果てに至るまでイエスの証人となるとはどんなことなのか。多くの思いや疑問の去来するうち10日が過ぎてその日が来た。
異国からも無数のユダヤ教徒が五旬祭の神殿詣でに殺到していた。西はローマ、東はアラビア、メソポタミアからエジプトという地中海全域に離散するユダヤ教徒たちがじつに国際色豊かにひしめき合って雑踏をなしていた。ところがその日、そのひしめく雑踏をさえ一気に鎮まらせる事件が起きた。ある一軒の家の二階に耳をつんざく轟音が響いた。家にいたのはイエスの弟子たちだった。窓も戸も締め切って外界から身を隠していた彼らに不思議な炎が舌のような形をして一人一人の上に留まったという。「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2章4)と使徒言行録は書く。聖霊降臨の出来事だった。
これはまるで新生児が誕生した瞬間に周りの静けさを破って突然大声で泣き叫ぶ様子のようだと想像せざるをえない。自分の誕生と存在を世の中にとどろかせる新生児よろしく主イエスの不在に打ち伏した沈黙の殻を破り、今やけたたましいまでに言葉が弟子たちの口からほとばしった。とにかくこの状況描写から読むわたしたちはまず大音響や激しい声や言葉に目を奪われるだろう。「激しい風が吹いて来るような音」といい、それが「家中に響いた」といい、「炎のような舌」また「”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」に至って気づかされることがはっきりする。それはついに弟子たちがためらわず声高らかに口を開いたことだ。つまりここには彼らが「何を」話しだしだしたかは書かれていない。この状況は弟子たちが今や、何の戸惑いもなく臆することもなく大胆に語り出したことだ。弟子たちは「ほかの国々の言葉で話しだした」。
さて「聖霊」とはなんだろう。大きな着目点がある。もっとも力強く目に飛び込でくる文がある。それは「”霊”が語らせるままに」だ。それは「霊が語らせるとおりに」とも訳せる。霊によって大音声(だいおんじょう)をあげた時、弟子たちは「何か」を考えたわけではなかった。「アジ演説」のように構築した理論を展開したのでもない。彼らは霊の語らせるとおりのまま口を開き話したのだった。何かを説明しようと語らなかった。何かを解らせようと話さなかった。いいことを言おうとしたのではない。彼らは何か素晴らしいことも何か善いことも話したのではない。「真理」を伝えなくては、などと思わなかった。彼らはただ霊の語らせるとおりを口移しするごとく口にしたにすぎない。それこそ証人としての弟子たちの最初の証言だったのだ。
これを別の言い方で言おう。信仰とは復活である。古き自分が死んでまったく新しき人が誕生することである。このペンテコステ、聖霊降臨に弟子たちは人生へと復活したのだ。イエス・キリストの約束を心に抱きつづけた時、彼らは復活へと導かれた。しかし復活は聖霊の語るとおりに語り生きることだ。彼らは自分たちが目論む人間に復活しようとはしなかった。ただ神の霊が語る言葉に彼らはただ生きたのだ。それだけでよい。復活は強い人間になることではない。知者になることでも賢者になることでもない。復活は新しくなることだ。聖霊の言葉を聞く時にわたしたちはそれをらずにおれない復活者となる。
そしてそれはどこにと聞こう。聖霊が語っているのはどこにあるのか。聖霊がわたしたちに語る場所はどこか。聖霊はどこで語る。それはここだ。気がつかなかった今ここで聖霊がわたしに語っている。昔の言い方では、神は「どこにもなくどこにもある」という。それは、どこにも見えなかった神がすでにここにおられるということだ。聖霊のことだ。わたしたちが気づけば、そこに聖霊の神がいつも語っていてくださる。わたしたちにできることそしてなすべきことは、どこにあってもつねに神に思いを向けつづけ聖霊の言葉に聞きつづけることなのだ
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