説教202600405ガラテヤの信徒への手紙2章19-21
「キリストの復活に生きる」
聖書
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
説教
ある人がこんな質問をした。「キリスト教では『クリスマス』と『イースター』のどっちが重要か」。クリスマスはイエス・キリストの「降誕祭」でイースターはその「復活祭」のことだ。どちらもイエス・キリストの出来事であり、降誕のクリスマスは神の子の人間としての誕生から死に至るまでの「受肉」をあらわし、復活のイースターは死に対する「勝利」といえる。ただ社会では民間の年越しの祝祭と結びついたクリスマスのほうが人々に親しまれている。もっともイースターも、その呼び名が春の女神「エストレ」をまつる季節行事ともともと関連しているが、社会的な定着度ではクリスマスほどではないだろう。
あえて言えば「受肉」は十字架の死に至るまで従順と謙遜を貫いた人間としてのイエス・キリストの死を指し示す。ただし、それだけであったらキリスト教は「信仰」しなくてもよいものとなるだろう。人間となった神の子が人間の死の出来事を遺しただけなら、それは過去をしのぶ言い伝えあるいは物語に過ぎず、良く言って「記録」止まりだ。そして神の子の従順の物語は「高潔で立派な出来事」として賞賛され崇められるだろう。だがそれは信仰の対象ではない。せいぜい真似ぶべき「模範」だ。聖書はイエス・キリストの出来事を過去の偉大な「物語」として遺したのではなく、人間に向けて「福音」として宣教した。その理由は、キリストの出来事が「復活」という「愚かさ」を問いかけ、それを信仰することによってこそ、神の意思を現わすものだからだ。しいて言えば信じ難い「復活」こそキリスト教信仰の核心と言わなくてはならない。「復活」こそ「信仰」の「起爆点」なのだ。「受肉」無き「復活」は無く、「復活」無き「受肉」は無いなどとステレオタイプ的に言うのは成熟した言い方だろう。しかしあえてわたしは「復活」こそが核心と言いたい。
その証拠に聖書は「復活」を描写はしていない。むろん三つの福音書はいずれも復活した以後のイエスの行動も言葉も描いている。ただイエスがどのように墓の中で生命を吹きかえし立ち上がったのかというような現場報告などはしない。たとえばマタイはこう書く。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。 『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』」(マタイによる福音書28章1~6節)
天使の言葉、「見なさい」。何を見よというのか。死者の場所を。でもそれはイエス本人ではなく、すでに空になった墓だ。死の場である墓に死がないことを見よというのだ。だが、「死がない墓」こそこのパウロの「キリストがわたしの内に生きておられるのです」という告白と一致する。墓とはわたしのことだ。そこでわたしの死が否定されている。神の子の復活は、死すべき墓であるわたしという存在から死を追放した。そのわたしの中に復活のキリストが生きているという。
そしてパウロはここにパウロ自身の「復活」を告白しているのだ。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ」。
パウロは「わたしはもう死んだ」という。イエス・キリストの贖いの死によって。それは律法の要求するとおりわたしは死んでやったということだ。だから死の件は終わった。「死は終わったのだ。もうわたしは死によって振り回されない。支配されることもない」と言う。「律法」とは何のことか。それは「裁き」のことだ。いつも有無を言わさぬ「正しさ」を振りかざしわたしを「悪い奴だ、罪びとだ、お前は死ななきゃいけない」と言い続けてぜったいわたしを放さない。また「善」を突きつけ「お前は程度が低い、お前はすることが遅い」と叱咤する。律法はわたしを生きる資格がないと叱責し、お前が生きてたら人に迷惑をかけるから居なくなれと罵り続ける。でもそんな律法の裁く脅威の悉くをキリストの復活が打ち払った。キリストの復活は殺す律法の訴えをすべて却下したのだ。
「キリストがわたしの内に生きておられる」。それは「わたしの復活」であることを意味する。「生きているのは、もはやわたしではありません」。しかしパウロはまさに「わたし」のことを言っているのだ。過去も現在も将来もまさにもはや「わたし」は「わたし」に生きず、「キリスト」に生きる。「わたし」が生きるのではなく、「キリスト」が「わたし」の中に生きる、というのだ。わたしが人生に向かうとき、キリストがわたしの人生に向かう。わたしが選択するとき、キリストが選択する。キリストが決断しているから、わたしは決断する。喜びも悲しみもキリストの内にある。苦悩も希望もわたしのために復活したキリストから来るから、わたしは苦悩できるし希望することができる。キリストは「わたし」である。
それをパウロはこう語る。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。「わたし」は「肉」に生きる。「肉」は「人生」のことだ。現実の罪や過ちにまみれた日々の生活を歩み続ける一生のことを言う。だがそこに罪の不安も裁きの恐れもわたしに対してなんの力を持たない。わたしのために死に復活したキリストが「わたし」を生きておられると信じる時、わたしはすべての不安や恐れの中にあってもまったく自由に、希望をもって生きることがゆるされているのだから。
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