説教 20260315ヘブライ人への手紙5章7~10節、10章19~25節
「罪びとを救った神」 ー 主の痛みはへりくだる ー
聖書
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
説教
かつての太平洋戦争で戦没した学徒に池田浩平というキリスト者がいた。彼の遺文は『運命と摂理』という本になっている。その中で彼はこんなことを書いている。人間は一生の間で多くの仕事や活動を残す。社会的事業や社会的繋がり。それをもって人間は自分の人生を業績として積み上げるだろう。しかしそのすべての最後に「×ー」(かけるマイナス)が付くとしたら、その人生はどうなるだろう。人生はプラスを積み重ねるようなものだが、その足し合わせたすべてにマイナスが掛けられたなら、人生はすべてが虚しいものにならないか。戦争での死を前にした池田浩平にとってマイナスではないプラスを探すことこそ人生の急務だった。マイナスとは「死」のことといえる。人はどんなに大きく立派な人生を送っても、死によって終わり、全部が忘れ去られていく。しかし彼はその死を「運命」と定義するが、それを越えるプラスを「摂理」と考えたのだった。人生のすべてを虚しく無意味へとマイナスに変えないで豊かで価値あるプラスとして遺すもの、意義あるものとして祝福するものこそ神の摂理だと書いた。
人生をマイナスで終わらせないでプラスとして導きたいというのは戦争時の学徒ばかりではないだろう。キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』には人間が重病などの不可避の死に直面してどのようにそれを受容していくかが書かれている。それによると5段階の心理的変化をとおして死が受け入れられる。はじめの第1は「否認」で「何かの間違いではないか」という気持ち、第2は「怒り」で「どうして自分がこんなことに」、第3が「取引」で「治るなら何でもする」、第4が「抑うつ」で「もうダメなのか哀しい」、そして最後の第5の「受容」に至って「これが自分の運命なんだ」という内面の推移を経て死を迎えるという。そしてこの5段階の中でもわたしたちは人生の意義を求めようと懸命になる。戦時でなくこうした日常時の死にあってもわたしたちは自分の過ごした人生をいつまでも価値が残るプラスと考え納得しようとする。しかし多くの場合、やはりその死は人生の「打ち切り」だったり「断念」といったほうが多いのではないか。
人生は「運命」ではなく神による「摂理」。「摂理」を生きる人生にこそ、そのすべてにプラスが掛けられる。そう信じ考えたところに池田浩平のキリスト者としての確信があったのだろう。たしかに人生は運命とみても摂理とみてもどちらも人間が自分の意志では左右出来ない「中断」や「切り上げ」というべきものにちがいない。しかし運命の場合、それが人間の願いを無視して人生を決定してその人生を最後に放置するのとは反対に、摂理において神は人間を内面から知り、人間も人生を支配する神がどんなかたであるかを知っている。そして摂理が神から人間への働きかけであることを知るなら人間の一生は価値あるものとして生き続け、死はひと時の通過点となり、さらに命を継続させる道標に変わる。いやそれどころか摂理の中の死はある意味で未来への跳躍台にさえなるだろう。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。
これは福音書のゲツセマネの園を思わせる。それはイエスが地に打ち倒れて父に祈る峻烈な様子そのものの描写だ。マルコによる福音書14章ではその姿をこう書く。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。…』」(33、34節)。
それは明日裁かれ、十字架に架けられ、殺されて死ぬ運命から逃れられないイエスの恐れを描く。身震いし身悶えする様相を恐ろしいほどリアルに描いている。イエスの祈りの声は耳をつんざき、その眼から涙がほとばしり、もはや死の恐怖に押し潰され、逃げだすことのできない過酷な状況となる。
なぜそこまで痛々しく書くのか。イエスの悲惨を、受難を。それはむしろ真の命を指し示すためだったからではないかと考える。ヘブライ人への手紙は続けて、イエスが「多くの苦しみによって従順を学ばれ」たと書いている。「御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」るためだったからにほかならない。イエスの激しい「叫び」と「涙」に深い痛みを覚えるなら、その痛みは「完全な者」そして「永遠の救いの源」「メルキゼデクと同じような大祭司」という祝福に満ちた讃美の言葉に変わっていかざるをえないのだ。究めつけは信じる者への勧めの言葉だ。
「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」。
イエスの「血」は聖所への導きとなり、「肉」すなわち「死」によって「新しい生きた道」すなわち「命の道」が開かれたと言う。「最後の晩餐」に示される神の子イエスの死である血も肉も受難のシンボルにほかならない。じつにその血と肉が死を運命として背負う罪びとに命を与え彼の人生を摂理へと生かすのだ。
「受難」を何と言おう。「受難」は「贖い」である。しかしそれはついにわたしたちを救い、復活させる。主イエスの受難は神が人間の「運命である死」を背負われた出来事だ。神の子は人間の痛みという「限界」を選び「悲惨」を担われた。しかしその痛みのゆえに神に「従順」となり父への祈りとなった。「従順」とは「下に向かって聞き入る」という原意を持つ。具体的には「へりくだり」だ。「従順」は隣人にへりくだり仕える。痛みは隣人の痛みを知ることなのだ。そのとき痛みは痛みを知る神につながり、人生は運命から摂理へと導かれる。叫びと涙によって死の運命に受難されたとき、イエス・キリストの死は摂理へと転換された。
イエス・キリストの受難に従順であろうとする人間は、イエス・キリストと同様に受難の痛みのさ中で摂理を生き、ついに復活の希望に来るだろう。
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