説教20260215出エジプト記1章1-21 「自分第一が自分を滅ぼす」
聖書
ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
説教
「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおり・・・ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。・・・・・子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた」・・・
こう、最初に関連する人物の名前や人数まで挙げて語り始めていることを見ると、『出エジプト記』はそれが『創世記』からの続編であることをあらわしています。そしてひとつの主題の中間的な完結編であることを示しています。ただここで、中間的な完結と言うのはその中心である「神の約束」であるイスラエルへの民への「約束の地」の授与がこの二つの『記』の中では完結していないからです。神の「土地授与」の約束が最終的に成就されるのは結局モーセ五書以外の『ヨシュア記』になってからです。
しかし、たんに神の約束の土地の取得だけを『創世記』と『出エジプト記』の主題だとみなすなら、じつはそれは創世記の13章14節以下の神の言葉「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」で成就しており、さらに17章7節でも「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」と、同じような神の言葉で完結しているはずです・・・・
いったい『創世記』と『出エジプト記』という連続した物語の真実の主題は何なのかをほんとうに考えた時そこにじつに興味深い二つの『記』の構成図が浮かび上がって来るのです。それはこの『創世記』と『出エジプト記』をつなぐ結節点が「目指すべき地」すなわち「約束の地」の喪失にあるということです。創世記はこの喪失に向かって進み、出エジプト記はこの喪失から出発するのです。ここでは、かの「約束の地」は失われ、もはや「目指すべき地」になっていたのです。イスラエルの民が「飢え」をしのぐために寄留したエジプトという繁栄と豊穣の地こそじつは空虚な地であり「飢餓地帯」そのものだったのです。そしてこの神の民の「飢餓地帯」への寄留こそがこの二つの『記』を連結するものであり、そこに始まる「脱出」という主題を凄絶に浮かび上がらせる動因となるのです。イスラエルは生きながらえるためにエジプトに身を寄せた。しかしじつはそのエジプトこそ彼らを真に飢えさせる地であり、ほんとうの命に生きるためには再びあの「神の約束の地」へと帰らねばならないのです。言いかえればイスラエルは「復活」しなければ真には生きられないのです。じつに、この「復活」という主題こそ「無からの創造」から連綿と続く『創世記』全体の不変の主題なのです。
そして、出エジプト記はその冒頭からエジプト王のイスラエル人に対する強い警戒感や嫌悪そして虐待から始まります。それはイスラエル人の数があまりに増加し、「一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」との想定がなされ、国家の存立基盤に多大の影響を及ぼす勢力になったと見られたからでしょう。「抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう」と、支配者である王は危惧するイスラエル人の人口を減らそうと画策します。これは独裁国家ではよく行われることです。隔離、断種、殺戮によって最終的には異分子を抹殺するのです。このエジプト王が採ったイスラエル人抹殺計画はイスラエル人の出産時に助産婦の手によって「男の子ならば殺し、女の子ならば生かして」しまうというものでした。当初は助産婦らが神を恐れ嬰児殺しをしなかったため、生まれた男児はすべてナイル川に投げ棄てられるように命じられたのでした。
しかし、かつてイスラエル人のヨセフを宰相に立てるなど異国人を重用したエジプト中枢がなぜ逆にイスラエル人を嫌悪し酷使し虐待したのでしょうか。「ヨセフのことを知らない新しい王」がと記されているとおり、この時、エジプトの中枢は大きく変わってしまっていたからです。実際の歴史上で見ると、「出エジプト」つまりイスラエルの民のエジプト脱出は紀元前1300年頃であったと考えられています。古代エジプト王朝はBC3100年頃からBC332年までですが、聖書のヨセフ時代はBC1795年頃以降と思われます。この時代は外来のヒクソス民族が王朝覇権を取りメソポタミア・パレスチナ系民族を多く移入させました。その中にイスラエルのヨセフもいたと推察できます。しかしその後BC1550年頃にはヒクソス系王朝はもとからのエジプト人勢力に倒され、従来のエジプト人王朝が復興することによってエジプトに在留する外来諸族への抑圧が高まったのです。イスラエル民族はエジプトに滞在したのは430年間(出12章40節)で、BC1300年にエジプト脱出ということが推定できます。
イスラエルの人々は国内の不穏分子とみなされ、過酷な重労働を強制され、監視下に置かれました。それはすでに差別であり、支配者によってその支配の外に置かれ、排除されて、生活や存在の場を奪われてしまったことでした。こうして神の民であるイスラエル人はエジプトにおいては「存在すべきではない存在」として国からも土地からも嫌われ、排除される運命に追いやられていったのでした。まさに彼らは後にヘブライ人への手紙によって、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブライ11章13節)と語った状況へと置かれて行きました。そしてこの「忌み嫌われ排除される存在」また「抑圧されしえたげられる存在」とされて呻き苦しむ者となった時、ついに彼らは神に気づかれ、知られる存在となって、かの「復活」への道の出発点である「脱出」すなわち「出エジプト」に立つに至るのです。
神はどこでわたしたちに現れ語りかけるでしょうか。それはわたしたちが失われる時ではないでしょうか。わたしたちの幸福や目的が失われ、人生や命が失われ、自分が空虚で空白な存在に思えてしまう時、神はわたしたちを見つめ、呻きを聞き、語りかけるのです。自分を言い聞かせても立ち上がれない時、声なき呻きに神は耳を傾けて来るのです。
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