説教20260201マタイによる福音書19章16-30「救いは神の思いのうちに」

聖書

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

説教

 富める青年。しかし、人はなぜ富むのでしょうか。富もうとするのでしょうか。生きていくため。でも人はどんな人でも、どんなありようでも生きています。貧乏でも見すぼらしくても生活苦があっても、豊かで快適で見た目美しく生きてる人と生きてるという点では変わりありません。楽に生きたい、だから富もうとする。これは普通のことですが、ひとつ深く見るなら、人は不安を補償し解消するために富むと言えます。不安を消すために富むのです。キルケゴールは言います。「人間がもし動物なら不安を持たないだろう。もし天使ならやはり不安を持たないだろう。人間であればこそ彼は不安を持ち、その不安が深いほど彼は卓絶している」。

 イエスの前に一人の男が現れました。マタイはそれを「青年」と見ています。当時のユダヤの社会ではおそらく40歳代を境にそれ以下を「青年」、それ以上を「年長(長老)」と呼んでいました。ただ、青年にもかかわらず彼は「たくさんの財産を持っていた」のです。良家の中にあって、親の財産の管理を任されていたのか相続していたのか、いずれにせよ年齢に不相応な富める生活をしていました。しかしこれを読み進むうちに気づくように、この青年は金銭的に富むばかりでなく、精神的にも徳に富んだ生き方をしていたのです。掟を守り、善行をする。他人から見れば「若いのに本当によくできたお方」などと言われるような生活ぶりであったでしょう。

 ところがそんな彼がイエスにぶつけた問いかけはこうでした。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」いくぶんかは自分の高邁さをひけらかす気持ちがあったかもしれません。でもそれ以上に彼は不安だったのです。焦りを抱いていたのです。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と答えられたイエスに向かってかれは言うのです。「どの掟ですか」。それにイエスが「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と応じられると、彼は切り返します。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。「まだ何か欠けているでしょうか」は検証というより焦慮から来る嘆願に近いものだったといえます。しかしどんなに彼が焦って願ってすべての掟を守っても、この青年の願望は曇ったままであり、すべての霧を払い切って見通せるような永遠の命、天国の救いに至るような道は見い出せなかったのです。

 この青年はその直前にイエスの前に立った子供たちとまったく対照的な人間として現れました。「天の国はこのような者たちのものである」とまで言われた「子供」たちとは反対に、この青年はじつに「大人」でした。「持てる人間」であり、「掟をみな守り」、「善いことを積み上げる人間」です。でも彼にはその「善いこと」が「どんなこと」であるかわからないままだったのです。とにかく善いと言われてること、とにかく大切な掟、十戒の掟、それらをすべてうわべで行い、形ばかり身につけては自我を膨張させるばかりだったのです。そして彼は掟を守ること、戒めを行うことの真の意義を忘れ、神の意志に従うことを満たしていなかったのです。だから「まだ何か欠けているでしょうか」と問うしかできなかったのです。

 見返せば、18章から、イエスは、小さな者を受け入れ大切にすること、七の七十倍赦すこと、神が結び合わせた結婚など人間関係のありかたを喩えなどによって教えてきましたが、ここに至ってついに「十戒」や「律法」にまで踏み込んできました。そしてその本質を伝えるのです。「どんな善いこと」と何か今まで聞いたこともないような知恵と奥義に満ちた「教え」が聞けると思った青年にイエスはただ「掟を守りなさい」と言い、「隣人を愛せよ」と言うだけでした。「そういうことはみな守ってきました」。「なんだそんなことしか答えないのか」と言わんばかりです。そんな「律法の達人」となっている彼にイエスはついに告げます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

 それは十戒、律法の核心であり本質でした。それほど自分を「完全に」したいのなら、すべてを売り払い、貧しい人にあげて、神のみに従いなさい。あなたは戒め、律法には従っていたかもしれない。しかしもう今は戒めも律法も自分の味方としないで、「神」にのみを「主」としてすべてを捨てて従いなさい。それが最後(完全・テロス)の在り方だ。青年は「律法・戒め」をみずからを「富ませる」手立てとして自分を飾る美徳のように考えてきました。しかしイエスのもとでは「律法・戒め」は人を責め苛み「貧しくする」裁きとなるのです。そして人はこの律法の前にただ「貧しい」存在であることを受け入れた時についに神のもとに膝まづくことができるのです。青年は「悲しみながら立ち去」りました。何を悲しんでか。それは本当には律法に従っておらず、掟を真に守っておらず、神に頼っていなかった自分です。

 

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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