説教20251221ヨハネによる福音書1章1-14
「言こそ命を照らす」
聖書
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
説教
かつて私は幼稚園で園児たちに聖書の話をしていました。年長の5歳児への「聖話」です。いとけない幼児のことですから「簡単に幼児に解る言葉」で話すようにしようと初めは思っていたのですが、話し終わってから園児たちの疑問や質問を受けたらそれが大変な過ち、錯覚、思い込みであったことに気がつかされ絶望と自己嫌悪のどん底に落とされました。あるクリスマスのお話の後のこと私がニコニコしていると、園児たちは可愛くも不思議そうな顔でこう聞いてきました。「せんせい、クラヤミって大きいの?それとも小ちゃいの?」。「ボクシせんせい、カイバオケで寝た赤チャンのイエスさまってオヤユビヒメみたいなの?」・・・どうやってこの超高等質問を切り抜けたか今となっては思い出す由もありませんが、冷や汗にまみれながら今さらながらあの子たちの疑問の純粋さと深さを思い知ります。
クリスマスの聖夜に灯るひとすじの光。闇をつらぬき、そこにあるすべてを照らす明るさ。罪を明るみに出し人間の苦悩や絶望を癒す光。といって、それはいったいどんな喜びをあらわすでしょうか。かえって子どもたちの疑問に立ち返って目を閉じるとこう感じます。もし自分が暗闇に置かれたならどう感じるでしょう?恐怖?孤独?いやそれどころかむしろ、心を刺しつらぬくのは「泣きたいほど際限もなくどこかわからない最果てへ遠く追いやられつづけていく心細さ、そして広大なだけに何にもない空ッポの宇宙の中で自分がどこにあるかわからない迷子になったような絶望感」ではないでしょうか。「クラヤミって大きいの?」日常の生活では大人たちが「自分こそ万物の尺度」だ、知らないことなどないとか、暗闇を打ち砕くのは「気合い」だ、怖いものなんかないとか、判断停止の勢いだァと世界を自分の手中に収めるほどの全能感で生きていながら虚勢を張っているのに対し、あどけない幼児たちはじつに素直にそして直(じか)に、わたしたちのすべて吞み込んでしまいそうな孤独や頼りにしている肉親からあっけなく棄てられることの恐怖を知っているのです。
目を見開いてみれば「自分は万物の尺度だ」とか「人生。気合いだ、判断停止の勢いだ」と言ってるのはある程度(高度とは言わない)の知恵や技量を身に着けた大人の「(これこそ高度の)スーパーマン妄想」だといえます。栄華きらめく「自己中心」の妄想の中で集団の「マウント」を奪い、他者を弱者のように支配し、人からの賞賛を力づくで獲得し、敵(実は自分から投影した仮想敵)をとことん破滅させます。「スーパーマン妄想」の中で人は悪意をも正当化しながら他人を「虐め」そして「戦争」に血道を上げるのです。
ところがこのスーパーマン妄想はほんとうはけっして「スーパー」ではないのです。この妄想はじつは自分の心の暗闇を偽りマスキング(上塗り)する「悲惨な栄光」にほかなりません。妄想を「悲惨」というわけは彼がみずから自由を捨てているからです。自由という心の広場から愛も寛容も排除しもはや誰をも信じない孤独の独裁者へと自分を追い詰めているからです。それこそが罪という暗闇に閉じ込められた人間の惨状なのです。絶望した時の人間の言葉はこうです、「ああ、陥れられた、なにもできない、身動きできない」。絶望した時に口走るこのような狭窄感と焦燥感こそパウロが苦悩した聖書の言う「罪」なのです。「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」(ローマの信徒への手紙7章10、11節)。「人は掟(律法)によって生きる」は「人は万物の尺度となって生きる」というのと同じ「妄想」にほかなりません。
そんな時、クリスマスの言葉は言います、「初めに言があった」そして「言は神と共にあった。言は神であった」と。神の言葉は語りかけ、そして牢獄の扉を開きます。暗い孤独と絶望の檻の中へと呼びかける光の言葉です。呼びかける神の言葉を耳にした時、狭められていた心は解き放たれ、棄てられ忘れられていた命が不信の暗闇を吹き払って湧き上がります。でもここに、もっとも目を留めなければならないことがあります。「暗闇って大きいの小さいの」と問い返したあの幼稚園の子どもの真意に向けて答えるように言えば、それはこの「言」がなによりも最初にあなたを知って愛したということです。最大の神が最小の姿になって、暗い孤独と絶望の檻の中で悶え苦しむちっぽけなあなたに気づき、そんなあなたを愛おしく憐み、呼びかけて言葉を交わそうと望んだことです。他の誰もあなたが孤独で、狭い自我の檻の中で絶望に悶き叫んでいる声など聞きもしないその時に、「言」をかける神は父のようにあなたと語り合おうと願い求めたのです。「初めに言があった」。それは昔の万物の始まりではなくそこから始まる「あなたの命の復活」のことを言うのです。
この日、神は立ち上がられた。事を始めようされた。クリスマスは神があなたに向けて対話を始めた日です。神はあなたのための神であろうと決意されました。人に向き合ってご自身のすべてを神は与えようと決められたのです。それがイエス・キリストでした。イエス・キリストは父である神のすべてです。それに向き合う時、人も隣人に呼びかけることができます。さらにいがみ合う者どうしが対話するように、敵対し合う者どうしも対話の道が与えられる日です。言葉をかける時そこに命が始まります。
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