説教 20251207マタイによる福音書19章1-12「神への自立なる結婚
聖書
イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
説教
この聖書箇所は離婚の問題を言っているようです。イエスはガリラヤを去りユダヤに行ったとあります。一歩一歩エルサレムへと近づいて受難への道を歩む姿が描かれています。この時、おそらくエルサレムから来たであろうファリサイ派の人々が来て律法の中の離婚の規定を持ち出してイエスを問いただし試そうとしたのでした。エルサレムに近づくにつれしだいに律法の問題がイエスに浴びせられることが多くなっています。前章では赦しは7回までかどうかの規定が問われ、ここでは離婚と、人間関係問題からはじまっています。
「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と彼らは問います。それは律法の解釈をイエスに問うたのです。じつは当時、離婚について二つの解釈が対立していたそうです。ひとつは「何か理由があれば」離婚は認められるという派と「どんな理由があっても」離婚は許されないという派の対立です。この時イエスを問い詰めたのは後者であったと思われます。もしイエスが離婚を認めればそれは神のみ心に背きます。もし離婚を認めないというなら現実の離婚に目をつむることになります。しかしこの質問に対しイエスは創世記の男と女の創造の物語を示し、そこに語られたいっそう根本的な神の言葉をもって結婚の真の定めを表すのです。
「『創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』(中略)そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」とあります。この「初めから」は「目的をもって」と言いかえると理解できるでしょう。男と女は、神が結び合わせて一体となる目的のために造られたというのです。この「結び合わす」という言葉は今日言われている「シナジー」の語源にあたるものです。それは「共働する、協力する、助け合う」という意味で「共に働いて一人一人の働きより一層大きい実りを生む」という相乗効果的結果を創造します。それはたんなる「共生」という並列的な在り方を越えて、互いに知り合い、互いに関わり合い、互いに働きかけ合うという積極的な意味を持っています。
もう一つの面から見ると結び合うとは自立し合うとも言いかえられる在り方です。心理学的には人間は自立してこそ他者に働きかけ関わり合えるのです。充実した自分を持った一人の人格としてこそ他の人格の存在を受け入れ認めることができます。そしてその他者の場に自分を投入することができるのです。自立は孤立ではありません。孤立は孤独に閉じこもり他者を否定します。孤立が他者を疑似的に受け入れる有り様は「依存」といえます。それは一見、相手と協調しあっているようで相手のことになんの関心も持っていないのです。そして依存は互いの要求が噛み合わなくなると激しい憎悪にさえ変貌するのです。ここに「自立」はなんの関係もないと思われた「愛」という言葉と置き換えることができます。なぜなら愛についてのあの有名な言葉こそ自立者にもっともふさわしいものだからです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリントの信徒への手紙一13章4)。
結婚は適齢だからなどと無思慮にするべきものではないのです。また法律で義務付けられるものでもありません。結婚は神からの贈物と言えます。それは福音のようにもたらされ与えられるものです。人は神に招かれて自立者となって結婚をします。
ただこの時ファリサイ派は離婚の可能性をモーセの律法によってイエスに問います。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」と申命記24章を突きつけます。イエスはこれに対し人間の「頑固さ」を挙げられます。離婚が許されたのは人間が頑固だからだと言います。イエスによれば、本来は離婚はありえないのです。「頑固」とは何でしょう。訳せば「頭が固い」ですが、強情に言い張ったり、譲らずに人を受け入れないというありようです。面白いことにまさにイエスの言われた「頑固」に呼応するようにファリサイ派は「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と突っぱねます。いったい彼らはどんな結婚をイメージしているのでしょうか、気になります。彼らはこう言うかもしれません。「互いに尊び合うなんて、助け合い仕え合うなんて、そんな夫婦関係などまっぴらだ。わたしは妻を自分の思うとおりにしておきたいのだ」と。さらにこう言うのでしょう、「愛なんて夫婦の間に必要ない。自立や尊敬など結婚とは無関係だ」と。ただ、そんな結婚観は現代においても大手を振ってまかりとおっていないでしょうか。ある高齢の夫婦が「結婚の秘訣は我慢だ」と言ってました。「言いたいことを言い、そしてそれを我慢してあとは聞き流すのが結婚の極意だよ」と言うのです。それは一緒にいても、まるでそれぞれ相手が存在しないかのように目をつぶり耳をふさいでやり過ごす、それが結婚の真実だと言うのです。考えてみればそれはすでに精神的に離婚しているのではないでしょうか。つまり人々は自立しないことのほうが都合がいいと言うのです。
でもそのような互いを無視し合うような関係の中で、苦しみや悩みを負って痛む相手と最後までいられるでしょうか。
結婚して自立するとは、神に感謝することです。わたしたちを結び合わされたことに感謝することです。神への感謝が夫婦それぞれへの感謝となります。この二つの感謝によって夫婦は高め合い、仕え合い、自立し合うのです。
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