説教20251116創世記49章29-50章6
「約束の地に眠る」
聖書
ヤコブは息子たちに命じた。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。それはカナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴で、アブラハムがヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになった。そこに、アブラハムと妻サラが葬られている。そこに、イサクと妻リベカも葬られている。
そこに、わたしもレアを葬った。あの畑とあそこにある洞穴は、ヘトの人たちから買い取ったものだ。」
ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。
説教
先日わたしは『ボンへッファー、ヒトラーを暗殺しようとした牧師』と言う映画を観ました。ボンヘッファーという人は第二次世界大戦中にドイツで牧師として活動した人です。彼は当時のドイツを独裁政治によって戦争や侵略へと引きずり込んだヒットラーの政権に立ち向かって戦い、やがてヒットラー暗殺計画に係わって拘束されついにドイツ敗戦の2週間前に処刑されてしまいます。映画はボンヘッファーの少年時代から描かれますが、慕っていた兄が第一次世界大戦で死ぬなど戦争の悲惨さやアメリカ留学中に知った黒人教会の信仰の深さに接し、ボンヘッファーは次第に自由で福音的な神学に目覚めていきます。彼は説教壇に立ちますが当時すでにヒットラーを神として熱狂的に賛美するドイツの国家教会の礼拝で「教会は権力の場ではない。聖なる場である」と説教します。会衆席には当然ゲシュタポ(秘密国家警察)もいて当初から彼は反国家分子とみなされます。牧師としての働きと共にボンヘッファーはレジスタンス(抵抗者)と共に活動し、やがてナチスに反対する「告白教会」を組織し、独自に若い牧師養成の学校もつくりました。1935年ナチスがユダヤ人の人種的迫害を規定する「ニュルンベルク法(アーリア条項)」を成立させるに及んでボンヘッファーはヒットラー暗殺計画に与するようになり、その実行のため一旦彼はナチス政権にスパイとして潜り込み従軍牧師の立場でヒットラーにも近づこうとします。結局ヒットラー暗殺は失敗し、関与が露見して逮捕され死刑判決を受けることとなります。処刑はフロッセンブルクという焼け跡の中の収容所の野外で執行されます。
映画では他の死刑囚と一緒に連行されるボンヘッファーに潜かに同情する一人の兵士が近寄って来て、明日死刑が行われるという時にボンヘッファーに逃亡の手立てをするから逃げるように勧めます。すると映画の場面でボンヘッファーはこう言うのです。自分は牧師という生き方を神から恵みとして与えられてきた。そしてわたしはその高価な恵みに対してふさわしい代価を払いたいし払わねばならないと思う。だから君(その兵士)の友情はうれしいがわたしはこの死をふさわしい代価として受け止めよう。こう言って翌日彼は絞首台に立ちます。おそらくこのやり取りは「高価な恵み」などの彼の信仰思想に基づいた脚色でしょう。「永遠なるもの、永遠なるもの」と双子の妹といっしょに祈るようにつぶやく場面など、ボンヘッファーの信仰思想が随所に浮かび上がってきます。この映画は彼の死の80周年を覚えて製作されたそうですが、今日の世界中に湧きあがっている人種差別や格差差別、エゴイズムや他者への誹謗中傷がボンヘッファーの生きていたナチス統治時代の風潮と似かよってきていることへの警鐘という思いでも作られたのではないかと思います。
約束こそは人間に目的を与えます。約束した目的に向かって人は人生を走ります。『走れ、メロス』の中でメロスは疲れ果て諦めかけた時も、誓い合った捕らわれの友人セリニンティウスめがけて身体を立ち上がらせました。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28章15節)この神の約束がヤコブの人生を導き貫いたのです。ヤコブは創世記中の最後の族長としての役割を果たした人物です。この時、彼が自らの死をもってあらわそうとしたのは、神が彼ヤコブのために最後まで約束を守りとおされたことへの感謝にほかならないでしょう。まさにボンヘッファーが神から与えられた牧師人生の代価として自分の死を受け入れたように。
ボンヘッファーのように人生を神からの高価な恵みと考え、その代価として死を神にささげるという、そのままの見方ではありませんが、このヤコブが自らの身体をあたかも献げもののように床にみずから両足を揃えて横たえ、従容として死に服していく様子はたしかに一種の儀式のようにも見えます。感傷的解釈を排して読むと、なにか自分で自分を犠牲(代価)として献げているような雰囲気があります。
ヤコブほど生きることに執着した人物はいないでしょう。物欲、修羅のごとく立ちまわり、それはまさにエゴイスティックな欲望のモンスターといってもいいくらいでした。兄の足に食らいつくように生まれ、父からさえ祝福を騙し盗り、放浪先の親族ラバンのもとでは娘二人はもとより最期にはその財産をかすめ盗るまでしました。帰郷直前のヤボク河畔では現れた神の天使と格闘し「祝福してくださるまでは離しません」と食い下がり、ついに「イスラエル(神の格闘者)」の名を与えられます。かつて裏切った兄との再会を前にしてはみっともないほどあからさまに一団の最後尾に自分を置き兄の恨みを警戒しました。そんな強烈な欲望と絶対に他人を信じようとしない猜疑心のかたまりのようなヤコブが今ここでみずからの人生を手離そうとしているのです。
最期に臨んでヤコブは息子たちにひとつの願いを伝えます。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい」(29節)と。この洞穴はヤコブが話しているようにかつて先祖アブラハムが妻サラを葬るためにヘト人のエフロンから買い取ったものでした。地理で言うと死海の西側のヘブロン高地の北方3キロにある地域です。マムレの樫の木の下と言えば父祖アブラハムが住んだ神の約束の地です。そしてアブラハム以来の家系の先祖たちが葬られた洞穴のある場所でした。ちなみにヤコブの愛した妻ラケルの名がないのは彼が帰郷して兄エサウと和解した後にそのシケムでの他民族とのいざこざから逃れてベテルへ移住する際、12番目のベニヤミンの難産でラケルは死んでしまい急きょエフラタに葬られたからです。
50章にはヨセフの行ったエジプト風の荘厳な葬儀があり、遺言どおりマクペラの畑の洞穴に父ヤコブのなきがらを葬ったのでした。しかしヤコブ自身が死ぬとき、そこに描写されているのはただ一人ヤコブが自分で自分の死を受け入れて床に横たわる最後の行為です。死が自分の行為として描かれます。自分の行為と言ってももちろん自殺ではありません。それは悲壮な死ではなく、ヤコブが疑いひとつなく自分の人生を神の約束へと向けて終わらせる行いだと言えないでしょうか。それはなんと安らかで確たる死の迎え方であったかと思います。葬りの洞穴はアブラハム以来、神が指し示した約束の目的地でした。ここまで来れた。神よ、あなたはこの人生に執着し続けたわたしをとうとうあなたの地に導いてくださった。ヤコブは神の約束に帰ろうとしたのです。なぜなら彼は死んでも神のヤコブへの約束は生き続けるからです。生きている間、ヤコブは神に忠実であり続けたとは到底言えない存在でした。しかし死は神の導きが支配する時でした。そしてそれがヤコブの上に実現する時だったのです。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。あの十字架のイエスの言葉がこの場に響くようです。死は神との対話の場。そして祈りの場です。そこでは約束の神がわたしたちに「あなたを愛している。あなたを守り続ける」と語りかけ、慰め安らわせてくださるでしょう。
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