説教20251102「赦されたなら」

マタイによる福音書18章21-35

 聖書

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。なたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

説教

 「借金取り」という言葉を知っていますか。他人に貸した金を取り立てる人間のことですね。小学生の頃、家にはしばしばこの借金取りが踏み込んできました。とても怖い思いをしたことを覚えています。父が共同出資の事業に失敗し、雲隠れした友人の負債を背負ってしまったのでした。後には家も土地も奪われて小屋のような家に家族全員が引っ越すことになりました。ただそれにはなんの惨めさも感じませんでしたが、少年であったわたしに、ずっと心に残ったのは夕食どきに家に入って来てやかましく「金返せ」と連呼するあの「借金取り」の猛々しい声の恐ろしさでした。家中では夫婦喧嘩というより父の母への八つ当たり暴力が絶えず、血を見ることさえありました。ある時には家を逃げ出した父を追って母がわたしを伴って東京まで夜行列車で行き、まだ暗い朝の東京駅にたたずんだ光景が瞼に焼き付いています。その後父は人と一緒に仕事をすることをまったく嫌い、夫婦だけで商店をするようになりました。わたしが耐え難い恐怖に感じたのは負債主が債務者に向けるあの高圧的で暴力的ともいえる支配感でした。「借りた金は返すのが当たり前だろ」や「仏の顔も三度まで」という時の顔はまるで正義の法の執行者のようですがそこには殺人者のような冷たい心が漂っています。

 ここに現れる「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」という弟子の問いに、イエスは赦す側に立つ人間の心に隠れた冷酷な優越感や支配感を感じたのではないでしょうか。それを読み取ったからイエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えたのです。じつはこの「七」という数字はイスラエル社会ではまったく「赦し」とは正反対の場合に使われていたのです。創世記に「カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」とあります。それは敵が攻撃したら七十七倍にして(限度無く)やり返すぞ」という意味の掟です。「隣人を愛し、敵を憎め」と長く教えてきたユダヤ社会に対してイエスの思いはこの無限の復讐にはっきりと「否」を突きつけるものでした。

 だから「そこで」と切り出すイエスの喩え話は聞く弟子たちを含めたユダヤ人にとってじつに破天荒であまりにも荒唐無稽(ファンタジック)に思えるような物語だったのです。イエスはユダヤ社会の「復讐の七十七倍」に対し天国の「赦しの七十倍」によって挑戦したのです。そしてイエスはこの「赦す」を上位から見下す正義の律法の手から奪い、へりくだって隣人に仕えるわざとして示そうとしたのです。

 ある王が家来たちの決済を行った。すると一人の家来が1万タラントンの借金をしていることが露見し、そこに連れて来られた。一万タラントンは今日ではどれほどの金額でしょうか。有名な「タラントンの譬え」もあります。1タラントンは6000デナリオンです。1デナリオンが当時の1日の日当と言われます。今日の日本人の日当は様々で分かりませんから、あえて5000円とします。だから1デナリオンは5000円で計算すると、1タラントンは6000デナリオン×5000円で三千万円となります。さらに10000タラントン×30000000円で三千億円の債務と言う今日の単位額となります。王と家来の話ですからこんな額面にもなると思いますが、それにしても天文学的に近い巨額の借財です。あまりにも破天荒です。しかしだからこそこの天国の喩えは律法的ユダヤ社会に対する挑戦となるのです。そして王はその家来に「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」のでした。一生を悲惨な奴隷のままで死に、二度と世間にはもどれません。ついに家来は惨めに土下座し這いつくばって自分の王に「待ってください」と死に物狂いで願わずにおれなかったのです。すると主君は家来を「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」というのです。三千億円の帳消し。常識的にあり得ないでしょう。「帳消し」は「見逃し」たわけでも「無視」したわけでもありません。巨額の負債と知りつつも家来を「憐れに思って、赦した」のです。これには弟子たちは驚愕したのではないでしょうか。呆気にとられる弟子たちに、さらにイエスの譬えが続きました。三千億円の債務を赦された家来が外に出ると百デナリオンを貸していた仲間に出会ったのです。すると家来は乱暴にもこの仲間を「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った」のです。仲間は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに願ったのですが、じつは家来はこれが先程、王の前で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った自分と同じ姿であるのに気づきませんでした。100デナリオンは5000円で計算すると五十万円です。五十万円となると日常でも有用な額だと思ってすぐ返すように迫ったのです。家来は正当な律法の執行者として有無を言わさず「仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れ」てしまいました。それは律法に定められた当然のことだったといえましょう。ところがそこにいた他の「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた」のです。なぜならそれはあまりに「悲しい」光景だったからです。思うに彼らが「心を痛め」たのはただ家来が仲間を牢に入れたことだけでないのです。悲しかったのはその家来が自分の主君から与えられた「憐れみ」による「赦し」を忘れてしまったからです。一生かけても返済できず後は牢獄で死ぬしかないような債務をすべて赦されて生きている自分だということを忘れていたのです。心理学的に見ると、他者から受けた愛や好意を忘れるのは心の底に敵意が潜んでいるからと言えます。家来は赦してくれた自分の主君に対して心の底で憎み敵対していたとも思えます。

 その状況はつぶさに王に知らされ、王は言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。「不届きな家来」と訳すよりも「悪辣な家来」がはっきりします。そう、この家来は主君の憐れみと赦しの思いを受けとめることをせず、放免されたという自分に有利な結果しか見ていなかったのです。赦しという大きな救いにもかかわらず彼は感謝しないのです。自分に与えられた憐れみと赦しに感謝せず「ありがとう」を言えない人間です。ついに家来は牢に入れられてしまいます。

 主の祈りにも同じことが言われています。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。同じところでイエスはおしえます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。

 人間は二つの定めを背負って生きています。三千億円の債務に譬えられるような消しがたい「罪」とそれを「帳消しにする赦し」です。罪を犯し続けるわたしを神の限りない赦しがいつも問うています。わたしたちを死に至らせるほどの重い罪そしていかなる罪であってもどこまでも赦しつづける無限の憐れみです。「罪と赦し」。この二つから人間は逃れることはできません。つねにそれを見つめ続け、神の赦しをわたしが人生の中に行うことによって「死の牢獄」から解き放たれるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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