説教20251019創世記49章1-12「あなたの人生に責任をもて」

 聖書

 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。

 ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。

 お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。

 ルベンよ、お前はわたしの長子

 わたしの勢い、命の力の初穂。

 気位が高く、力も強い。

 お前は水のように奔放で

 長子の誉れを失う。

 お前は父の寝台に上った。

 あのとき、わたしの寝台に上り

 それを汚した。

 シメオンとレビは似た兄弟。

 彼らの剣は暴力の道具。

 わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。

 わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。

 彼らは怒りのままに人を殺し

 思うがままに雄牛の足の筋を切った。

 呪われよ、彼らの怒りは激しく

 憤りは甚だしいゆえに。

 わたしは彼らをヤコブの間に分け

 イスラエルの間に散らす。

 ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。

 あなたの手は敵の首を押さえ

 父の子たちはあなたを伏し拝む。

 ユダは獅子の子。

 わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。

 彼は雄獅子のようにうずくまり

 雌獅子のように身を伏せる。

 誰がこれを起こすことができようか。

 王笏はユダから離れず

 統治の杖は足の間から離れない。

 ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

 彼はろばをぶどうの木に

 雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。

 彼は自分の衣をぶどう酒で 着物をぶどうの汁で洗う。

 彼の目はぶどう酒によって輝き 歯は乳によって白くなる。

説教

 冒頭の表題付けにありますように第49章は「ヤコブの祝福」と呼ばれています。ヤコブは自分の最期が近いことを悟り「息子たちを呼び寄せて」「わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい」と彼らに最後の言葉を語りはじめました。それはヤコブが語り終えた後に「これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福した」(28節)と付け加えられているとおり「祝福」に相異ありませんでした。そこには「すべて、イスラエルの部族で、その数は十二である」と述べられるように長男ルベンから始め年の順は不同になりながら12人の兄弟の名が挙げられ、それぞれに言葉がかけられます。

 しかし「祝福」と言われるこれらのヤコブの言葉はどうでしょう。まさしく祝福らしい言葉だと受けとめられるのはヨセフに与えた言葉だけではないでしょうか。他の息子たちにはなるほどユダに対しては「兄弟たちにたたえられ」とか「王笏はユダから離れず」などと讃える言葉もありますが、ヨセフよりもどこか突き離した物言いです。それ以外の十人の息子たちに向けてはそれほどの芳しい言葉は贈られてはいません。むしろ叱責や呪いとも言えるような言葉が下されています。ルベンには長男であるにもかかわらず父である自分を辱めたことを責めています。シメオンとレビは一絡げにしてどちらも怒りっぽく暴力的であるとなじります。ヤコブは自分の息子なのに彼らを動物になぞらえて見るところがあります。ここでも「ユダは獅子」と言うのはともかく「イサカルは骨太のろば」などと「苦役の奴隷」の未来を予言します。ダンに至っては「道端の蛇、小道のほとりに潜む蝮」と揶揄し嫌われ者のように言います。ヨセフが人質に要求した時「この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ」とまで手離すのを拒んだベニヤミンでさえ「かみ裂く狼、朝には獲物に食らいつき、夕には奪ったものを分け合う」とその凶暴さを指摘します。他のゼブルンは海辺の定住地のこと、ガドは侵略者と戦うことが語られ、アシェルとナフタリにはほんの短く「豊かな食物」と「解き放たれた雌鹿 美しい子鹿を産む」と言い添えられるくらいです。

 「祝福」と言うにはあまりに感情的で、人間の選り好みが気分的に過ぎてはいないかといささか疑問が湧くのですが、これこそどこから見ても「ヤコブらしい祝福」なのだと納得せざるをえません。思い返せばヤコブほど「祝福」にこだわった人間はいません。兄からは嘲るように長子の特権を奪ったばかりでなく父イサクからも見下すように「祝福」を騙し盗りました。そしてそれがために異境ハランへと逃亡しなければならなくなった時、「天からの階段」の地ベテルでも神から「祝福」を得ました。そして二十年の歳月を経てついにカナンに帰り着く直前のあのヤボク河畔のペヌエルでは神の人に喰らいつき続け、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(創世記32章27節)と言ってそれをもぎ取ったのです。

 じつは聖書で「祝福」はじつに多岐にわたって語られています。神は「祝福して言われた。『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ』」(創世記1章22節)というように天地創造は神の祝福により行われたと創世記は言います。またアブラハムに対しても神は「あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章2節)と言い神が人間を選ぶ時のしるしとしました。律法でも祭司は神の名によって民を祝福するつとめを与えられ、さらに家庭では父は子を祝福する者とされるのです。旧約聖書ならずとも新約聖書でも「祝福」の重要性があります。イエスは最後の晩餐で「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」(マタイ26章26節)たとありますが、この「讃美の祈りを唱え」は「祝福し」と同じ言葉「ユーロゲイン」なのです。イエスは祝福してパンと杯とを分かたれたのです。またイエスは昇天の際も「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24章51節)のでした。もうひとつ気付くのはこの「祝福」(ユーロギア)は神やイエスから人間に与えられるだけではなく、人から神、イエス・キリストにも向けられるのです。イエス・キリストが受難のはじまりにエルサレムに入城した時、人々はこう言ってイエスを迎え入れました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ福音書21章9節)。祝福は人間からも与えることのできるものなのです。そしてわたしたち人間が神に向けてなす祝福の一例が「献げ」です。献身であり献金もありましょう。パウロはコリントの人々に「贈り物」すなわち「献金」を願います(コリントの信徒への手紙二9章5節)。この「贈り物」の言葉がまた「祝福(ユーロギア)」です。すなわち人間が神に向けて「祝福」ができると言うのです。それであればまた人間どうしの与え合いまた分かち合いも「祝福」と言えるのではないでしょうか。

 ヤコブが息子たちに与えた祝福とは何でしょう。ヤコブは非常に粗野な裸の言葉で息子たちに祝福を与えました。しかしそれは祝福を与えるためにはもっとも必要な言葉だったからではないでしょうか。それは祝福というものの核心をあらわしています。祝福は人が心の一切の飾りや言葉の斟酌を取り払いありのままの自分からしかできないからです。ヤコブは父として、息子たちがどんな人間性を持ち、どんな生き方をするのか冷徹なほど知っていたのです。だからこそ辛辣に明け透けに祝福したのです。ヤコブほど心の感情や欲望、本心を丸出しで生き、神にも人間にも向き合った人物はいないでしょう。息子たちに祝福を与える時、ヤコブは着飾ってはおられなかったのです。それはヤコブのこれまでの人生への責任の取り方そのものであり、同じように息子たちに人生の責任を迫ったのです。神に向かって自分自身を見つめ続けよと。個人的なことですがわたしは牧師になるのが遅れて家に戻って大学院の学生生活をしていた時に母親から「いつまで人に頼ってる」と叱責されました。彼女が死ぬ三日前にも「お前それで大丈夫か」と問われました。考えてみればそれはこのヤコブの言葉のように「祝福」の言葉ではなかったかと思います。我が子の行く末をただ心配をするのでなく子に「自分を見つめ直せ」と言うのです。親でなくては見抜けない子の弱さや人間性を祝福は鋭く指摘し祈りつつ見守るのです。そして親子ならず友にたいしても隣人にたいしてもこの辛辣な祝福は生きるのではないでしょうか。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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