説教20251005マタイによる福音書18章15-20

「あなたとわたしをつなぐ神」

 聖書

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

説教

 18章は「だれが天国でいちばん偉いのですか」という問いから始まりました。イエスは「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と答えて、そこから二つのことを語りました。まず「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と「つまずかせる人間」の罪がどんなにか重いものであるかをイエスは教えます。そして次には「迷い出た一匹の羊」の譬えを話され、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と、小さく弱い人々をわたしたちが大切に受け入れるべきことを述べられました。

 ところがその後の15節以下になると、イエスは「罪を犯した兄弟」の例を出し、そこからそんな罪を犯した兄弟に対してわたしたちがどうすべきかについて語るのです。「小さき、低い人間」の話はどこへ行ってしまったのかと思うのですが、じつはこの「罪を犯した兄弟」が「小さき、低い人間」なのです。よくここは「戒め」や「教導」のように受け止められて、学校の校則違反のように見られ、これに違反した人への戒め方や対処の仕方のように読まれることがありました。昔、ある教会で主日の礼拝の後にその教会員である人が外に出てたばこを吸って一服していました。ところがそれを見つけた教会役員さんが非難して役員の会議に訴えて、ついにその人は教会から除籍されてしまいました。そんな処遇の元となったのが「教会戒規」というものでした。そこには今でこそ「信徒の喫煙」などは大方ないでしょうが、様々な道徳的乱れが戒規の対象として想定されています。

 でもこの15節からのイエスの言葉はそんな「戒規」を言っているとはけっして思えません。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。ここに「裁く」という言葉はあるでしょうか。「判決」どころか「判定」も「判断」もありません。まず第一に気付くことは「あなたに対して罪を犯したなら」とあります。神に対してというより「あなたに対する罪」であり、日常の人間関係の不和やいざこざと言ったほうがよい「罪」なのです。問題はこの「罪」つまり「わたしにとっては赦し難い罪」を犯した「兄弟」と「あなた」がどのようにして関わりを修復すべきかをイエスは教えるのです。「(あなたが)兄弟を得たことになる」とイエスは言います。人間である「あなた」が友を得ることなのです。「忠告しなさい」とは「心を明らかにする」、「思いを説明する」と言い換えたほうがいいでしょう。そして「ほかに、一人か二人、一緒に連れて行きなさい」とは「双方の心を受けとめる理解者を迎える」ことです。これはこんにちの「修復的司法」あるいは「和解的司法」につながるものでしょう。そのうえで両者の思いが繋がらなかったら、そこに教会が争う二人の絆の場として現れます。しかしそれは祈りの場として現れるのです。教会は「絶対者」ではありません。教会は裁きの場ではありません。白黒や善悪の決着をつける場ではありません。教会が最後の判定者や裁判官ではないのです。教会もこの関係を修復できなかったらと、イエスは言います。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と。「異邦人、徴税人」と聞いて「罪人」と思い浮かべるのはファリサイ人や律法学者の考えです。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、(徴税人らの)罪人を招くためである」(マタイ9章13節)と言われたではありませんか。「異邦人か徴税人と同様に見なす」とは「突き離す」ことではありません。もう(ダメなヤツと)関知しなくなる、絶交することではないのです。それはむしろ人間関係のいちばん最初に帰ってあらためて向かい合うということなのです。

 人間関係のいちばん最初にあるものは何でしょう。それは「祈り」だと言えます。「同感」や「共感」ではありません。同感や共感は自分と同じだと思える相手にしか向かいません。「理解しあうこと」でもありません。理解しあおうとしたらいつまで経っても人間関係は成り立たないでしょう。祈りだけがわたしたちを人間として向かい合わせるのです。ここでイエスは言うのです。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。神への「求め」は祈りです。祈りは神の「無からの創造」のように憎しみを愛に変えます。祈りは「敵意」(エフェソ2章16節)を乗り越え、二つの心を一つにするのです。「どんな願い事であれ」と言われるのですから、イエスは願いすなわち祈りの良し悪しを問題にされません。二人ならなにを祈り願っても答えるとイエスは言うのです。何故なら、その時そこにイエスが「いる」からと言うのです。祈りがイエスの「存在」を実現するのです。

 心理治療家の河合隼雄さんは「ソウル・メーキング」ということを言っています。ソウルつまり「心」は言語によって定義できない。それは「ファンタジー」によってのみ言いあらわせると言うのです。「ファンタジー」とは訳の解らない言葉ですが、よく考えてみると「心」もまたほんとうは何か解りません。「思い」とか「気持ち」また「魂」や「霊」とも言います。ところがイエスが言っています。「風(霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。風は「プニューマ」と言い「霊」や「心」を意味します。心や霊そのものが自分の所在(いどころ)を失い、人間が心や霊を抑えきれなくなってしまう時、人間どうしの間で罪が生じ争いと不和を起こします。不和は迷子のようにどこへも帰れずにただ泣き叫ぶ心の衝突と言えましょう。河合さんにとっては「ファンタジー」だけが心を表現できるものです。「ファンタジー」とは心の「想像力」というものかもしれません。その人が自分について描く「物語」とも言えます。たとえば「高所恐怖症」はまさに高所を恐れる人のじつに豊かなファンタジーだというのです。じつはわたしは河合隼夫さんのいう「ファンタジー」とは宛先のない「祈り」ではないかと思います。自分が高いところから落ちるとダメになってしまうから助けてほしいとか、もっと強いファンタジーになると学校へ行けない、家から出られないという心の祈りにも似たファンタジーではないでしょうか。わたしはイエスの語られた「迷い出た羊」とか、「放蕩息子」などの譬えも一種のファンタジーと考えられるのではと思うのです。それはイエスの心に生まれる父への祈りではないかと。

 キリスト者の心の所在(ありどころ)は「祈り」です。イエス・キリストを信仰するとは祈ることです。なぜなら「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(20節)から。祈るとき、そこにキリストが共に祈っているのです。そしてキリストはわたしたちを主自身の祈りのうちへ迎え入れます。イエス・キリストの祈りを聞き、わたしたちは「これらの小さい者」を裁くのではなく、真に一つとなり、共に祈り、愛し、赦して与えあうのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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