説教 20250921創世記48章1-6,12-19

「後の者が先になる」

聖書

ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。

 そして、ヨセフを祝福して言った。

 「わたしの先祖アブラハムとイサクが

   その御前に歩んだ神よ。

 わたしの生涯を今日まで

   導かれた牧者なる神よ。

 わたしをあらゆる苦しみから

   贖われた御使いよ。

 どうか、この子供たちの上に

   祝福をお与えください。

 どうか、わたしの名と

   わたしの先祖アブラハム、イサクの名が

   彼らによって覚えられますように。

 どうか、彼らがこの地上に

   数多く増え続けますように。」

 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。

 「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」

 ところが、父はそれを拒んで言った。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」

説教 

 人が誰かを好きになる時、それはなぜでしょうか。友人同士の場合でも恋愛の関係でもよいのですが、時々関係のない第三者から「あいつの友達にあんな奴がいるなんて」とか「あの子、あの男のどこがよくて結婚なんかしたのよ。美女と野獣よ」などと友人関係や恋愛関係に異議を唱えられることがあります。人が他の人と親しい繋がりを持つというのはとても不思議なことで、一概に「素晴らしい人間だから」とか「かっこいい」、「美人だから」が理由になるものではありません。これはじつは聖書の中でも「神と人」との結びつきにも同じことが言えます。これは神が人を愛する場合がそうで、神はけっして人間を「すごい立派な人間だから」とか「信仰が熱心だから」とかでは愛さないのです。時々といいますかしばしば、いやけっこう頻繁に「あんなのが信仰者?」「教会に行ってる人間にしてはやってることがなってない」などと言われることがあります。見てみればなるほどたしかに性格は悪いわ、遊び事もするわ、教会も休むわで手に負えないような信仰者がいるでしょう。でもあらためて考えてみると、教会の中心者、「ぬし」は文字通り「主」であり「神」でありキリストにまちがいありません。そこにどんな人間が集まっても集められても神、キリストがおられるかぎり教会は変わりなく存在するのです。

 昔、ルターが自分の罪に悩み「俺はどうしたら救われるんだ」と体を鞭打ってまで苦しんでいた時、聖書の詩編71編2節にこう書いてあるのを見ました。「なんじの義をもて我をたすけ我をまぬかしめたまえ」。古い訳がルター訳に近いので引用しました。「自分のような罪深い人間」がどうしたら救われるんだと苦悶していた時、自分を助ける「義」のほんとうの意味を塔の中の狭い部屋の中で知ったのです。それは「神の義」は人間を裁く審判の義ではなくどんなに罪深い人間でもどこまでも追いかけるように「神の存在にかけて救わずにはおれない」ほどの「愛の義」であることだったのです。つまり相手の人間が誰によらずどんな罪人であろうとも神の名をつらぬきとおすために愛し救いぬくという神の、自身のための「義」だったのです。だから神はご自分と似つかわしくない相手を選び愛しぬかれたのです。つまらない信徒がいる、無力なキリスト教信者がいるからと言って、それで教会が教会でなくなるのではないのです。神はどんな人間、だれを選ぶかは神が決められる深い愛の秘密なのです。

 聖書はしばしば通常の常識や見識と異なるさらに反する考え方を述べていることがよくあります。その一つがこのヤコブが愛する息子ヨセフと再会しその孫であるマナセとエフライムを祝福する場面です。ヤコブは自分の命の終わりの時が迫ったことを受け入れたのでしょう。いよいよある思いを持ってこれをヨセフに知らせました。ある思いというのはこれ以後2節まで、ヤコブは「ヤコブ」という名では登場しないからです。彼はカナンへの帰還時神との格闘の末、与えられた「イスラエル」という民族の長としての名をもって振舞うのでしょう。

 そこでイスラエルが行ったことはヨセフの二人の息子への祝福でした。よくよく思い返してみるとヨセフはどうでしょう。じつはヨセフはイスラエル12部族の中にはありません。「ヨセフ族」なんて聞いたことはないですね。ヨセフの記事を読み返してみると、どうもヨセフには異境的オーラが漂っています。夢を見るとか解くとか。独り派手な服装を着ていたというのも他の兄弟から見れば自分の同胞にしては何だという気持ちも起こるでしょう。結局、運命じみた成り行きでエジプトで奴隷から宰相にまで成り上がりますが、彼ヨセフの神から与えられた務めは「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(45章5)につきると言えます。そこですっかり一生を異邦エジプト人として過ごしたヨセフの名跡を受け継ぐ者としてイスラエルは孫を名指します。つまり12部族のうち2部族はヤコブの息子ではなくこの孫たちです。イスラエルつまりヤコブはかつて流浪の最初に天の階段の下で神から与えられた祝福を聞かせながら言います。

 「今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい」(5節)。

 それはある意味ヨセフへの「伏せた」祝福と言ってもよいでしょう。そんな思いを伝えるかのように父はヨセフの母である愛する妻ラケルとの死別やその葬りの思い出を語ります。

 「わたしはパダンから帰る途中、ラケルに死なれてしまった。あれはカナン地方で、エフラトまで行くには、まだかなりの道のりがある途中でのことだった」(7節)。

 ただ同じ神を仰ぎ従う人間と言っても神の与えるものを今後受け継ぐ者はエジプトに生きたヨセフではなくその息子です。父イスラエルの思いを受けたヨセフは二人の孫を父の前に来させます。父は二人がヨセフの子であることを確かめて彼らを祝福しようと抱きしめました。ただ、ここでイスラエルは不可解と思われることをするのです。祝福のため二人の頭の上に父の手が置かれるのですが、ヨセフは二人の後ろから左手で長男マナセをイスラエルの右手側に膝まづかせ、右手で次男エフライムをイスラエルの左手側に膝まづかせます。祝福の優位は祝福者の右手にありますからヨセフは長男であるマナセに優先の祝福を受け継がせようと考えたのです。イスラエルの右手がマナセに左手がエフライムに置かれるように。ところがはたと見ると、なんと父の両手は交差して二人の頭の上に置かれているではありませんか。イスラエルの右手はマナセではなく左側にいるエフライムの頭の上に置かれ、マナセの頭の上に左手が置かれているのです。驚いたヨセフは不満を父にぶつけます。「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください」(18節)。すると父イスラエルは言ったのです。「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」(19節)。「拒んで」とまで書いてありますから父イスラエルにとっては弟エフライムへの十分な洞察があっての選択だったのでしょう。そんな手を交差したままの祝福が決行されたのでした。その祝福を確認するように創世記は書きます。「彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである」(20節)。

 最後までヤコブはヤコブらしく振舞ったと言えるでしょう。人の裏をかく。人の目をつけない部分に目を向ける。この時ヤコブの「目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた」とありますから、二人の見た目より抱きしめた時の感触で瞬間的にエフライムになにかの希望を感じたのかもしれません。そしてそれは神のひとつの啓示と言ってもよいと思われます。気がつくのはヤコブ自身が若い頃、父や兄を騙した時、ヤコブの父イサクは同様にかすんだ目で弟ヤコブと気付かずに祝福してしまったことです。ヤコブの鋭い人間観察は目であろうと感触であろうと神から与えられた天性の賜物だったのかもしれません。

 しかしこの「弟が兄の上に立つ」というパターンは聖書の中に深い真理表現として幾つか存在します。すでに「カインとアベル」もそれに類すると言えましょう。第1の王サウルに代わる第2の王ダビデ。でも聖書をつうじてもっとも知られた上下逆転イメージはイエスが語られた「放蕩息子とその兄」の話でしょう。「金持ちの天国入りの難しさ」や「ぶどう園の労働順によらない報酬支払」などでもイエスは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言います。パウロはこれを総括するようにローマの信徒への手紙9章で言います。「(神は)『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです』」。「兄は弟に仕えるであろう」というまさにこのエサウ・ヤコブ兄弟誕生時の預言も「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というマラキの預言も、根幹は人間が「自分を根拠にはできない」ことを言い表しているのです。人間には算段、目論見、計画、蓄積、自信、希望など多くの「拠り所」があるでしょう。それをもってわたしたちは人生をどんな阻害物や困難に出会っても乗り越えていこうと思います。しかしそんな「拠り所」の闘いでわたしたちは乗り越えるにせよ逃げるにせよ闇雲に自己正当化する「傲慢」や「孤独」を避けられないのです。「自分を根拠」にする限り自分の「人生を持つ」ことはできないのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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