説教20250803「涙が羊を救う」

マタイによる福音書18章10-14

 聖書

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

説教

 このマタイによる福音書18章10節以下を読んで、「おや?」と思う人がいるでしょう。そうです。11節がないのです。現代の世界中の言葉の聖書にも11節はありません。それは近代の聖書の研究が進むにつれて、ここには元々11節の文はなく、後になって前後文脈の説明を付けるために付け加えられたと考えられたからです。だから近代聖書研究以前の聖書、中世の聖書や宗教改革者ルターが訳したドイツ語聖書には11節がちゃんとあります。ではそこにどんな文章があったかというと、

こうです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19章10節)です。つまりルカによる福音書19章10節と同じ分がそのまま使われたようでした。そしてこの言葉があればこの後の「迷い出た一匹の羊」の譬えがより明確な意味をもってくるわけです。「小さな者を一人でも軽んじないように」というイエスの言葉が主の救いのみわざにしっかり繋がります。

 ただこのマタイの「百匹の羊」の譬えは、よく読むとルカのそれと細かい部分で違っていることに気がつくでしょう。まずルカが「見失った一匹」と言うのに対し、マタイは「迷い出た羊」と言います。これはルカが飼う人間の立場から見ているのにたいしマタイは迷った羊の立場から見ているという観点の違いがあります。そして他の九十九匹が残される場所はルカでは「野原」であるのにたいしマタイでは「山」とされます。それはルカでの譬えがイエスから「野原」に喩えられる「街」に住むファリサイ派に向けて語られるのにたいして、マタイではイエスと共に街を離れて旅をする弟子たちとの対話の中で語られる違いから来るのでしょう。ルカはその一匹の羊を「悔い改める一人の罪人」と言い、マタイは「これらの小さな者」と呼ぶのです。言い方が違うだけと言えばそれまでですが、マタイはルカの使わない「ミクロン(小さな者)」を前段落から言いつづけて、これを軽んじないように教えるのです。ルカは「見つけ出すまで捜し回」る姿や「見つけたら、喜んでその羊を担」ぐとか「人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言う」など飼う者の羊への愛を描写し、最後の「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」の結びで「悔い改め」る者の救われる喜びが強調されます。一匹を「見失った人」の心配と喜びの愛情をファリサイ人に訴えかけるルカにたいして、マタイはあくまで「迷い出た一匹」を「軽んじないように」することを弟子たちに命じます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」の言葉でイエスは父である神の小さな者への愛と受容の赦しを示そうとするのです。

 「迷い出た」とは「迷わされた」とも訳せる言葉です。イエスの言葉では、もし捜し出さなければ「迷わされた一匹」は神から遠く隔絶されて「滅び」てしまうのです。マタイは1節から「天の国でいちばん偉い」者がじつは「子供」のようにもっとも「低く」てもっとも遠く離れ「迷わされ」て「滅びる」かもしれない「小さな」存在であることを言いつづけられます。イエスはこの「小さな者」を受け入れることをまたこの「小さな者」と共にあることをわたしたちに教えるのです。

 目につくのは、ここ10節に「彼らの天使」が表われることです。おそらくこれはこの時代に考えられていた「守護天使」と思われます。人間一人一人に遣わされていた天使で神へのとりなしの務めをなしていたと考えられます。そうして彼らは夫々の人間の生活を守っていたのでしょう。顔を挙げ神を仰いで人間のために祈っていたのです。わたしは天使の顔に涙が溢れている情景を見ざるをえません。もし天使たちの守るこの弱く低く「小さな者」が他の人間から受け入れられず軽んじられ侮られそして「滅びる」ならば、天使の心は痛み、神はどれほどみ心を傷つけられることでしょう。小さな者をないがしろにすることは神の愛を損ない神に敵することにほかならないのです。今、わたしたちはこの神への敵対行為が世界のいたるところで行われていることに驚かざるをえません。利害ある者どうしが対立し争い合うというよりももっと恐ろしいことが起きています。それはいくつかの地上の政治的指導者が自分の思いのままに抵抗さえできない弱く低い「小さな者」である人々や民衆、国民を大量に傷つけ殺害していることです。かつてのように自国の独立や尊厳のための争いをはるかに越えて、地上の指導者はまさに自己の権力拡大のため権威誇示のため神が愛しておられる人々の命を奪い、創造された自然の秩序を破壊して神のみ心に敵対しているのです。しかし小さな者への「侮り」や「蔑み」、「傷つけ」は日常にもあります。自我を膨脹拡大し「上からの目線」で他者を支配する傲慢、ひとりよがりの正義によって隣人の尊厳を貫き死にさえ至らしめる精神的暴行が蔓延しています。

 イエスは言います、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」また「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と。愛はわたしたちが一人一人を「受け入れる」ことによって生まれます。喜びはわたしたちが神によって「同じ者」とされ「共にある者」とされたことから始まります。イエスは一匹の羊を追い求めます。イエスは小さな者に仕え、小さな者の十字架にさえ来られます。受け入れるとは小さな者の十字架の痛みを背負うことです。彼の苦しみの十字架を背負う、あなたの命を背負う、理解する、そして手をさしのべることこそが神もわたしたちも共に実現する天の喜びとなるのです。マタイによる福音書18章10-14

 聖書

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

説教

 このマタイによる福音書18章10節以下を読んで、「おや?」と思う人がいるでしょう。そうです。11節がないのです。現代の世界中の言葉の聖書にも11節はありません。それは近代の聖書の研究が進むにつれて、ここには元々11節の文はなく、後になって前後文脈の説明を付けるために付け加えられたと考えられたからです。だから近代聖書研究以前の聖書、中世の聖書や宗教改革者ルターが訳したドイツ語聖書には11節がちゃんとあります。ではそこにどんな文章があったかというと、

こうです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19章10節)です。つまりルカによる福音書19章10節と同じ分がそのまま使われたようでした。そしてこの言葉があればこの後の「迷い出た一匹の羊」の譬えがより明確な意味をもってくるわけです。「小さな者を一人でも軽んじないように」というイエスの言葉が主の救いのみわざにしっかり繋がります。

 ただこのマタイの「百匹の羊」の譬えは、よく読むとルカのそれと細かい部分で違っていることに気がつくでしょう。まずルカが「見失った一匹」と言うのに対し、マタイは「迷い出た羊」と言います。これはルカが飼う人間の立場から見ているのにたいしマタイは迷った羊の立場から見ているという観点の違いがあります。そして他の九十九匹が残される場所はルカでは「野原」であるのにたいしマタイでは「山」とされます。それはルカでの譬えがイエスから「野原」に喩えられる「街」に住むファリサイ派に向けて語られるのにたいして、マタイではイエスと共に街を離れて旅をする弟子たちとの対話の中で語られる違いから来るのでしょう。ルカはその一匹の羊を「悔い改める一人の罪人」と言い、マタイは「これらの小さな者」と呼ぶのです。言い方が違うだけと言えばそれまでですが、マタイはルカの使わない「ミクロン(小さな者)」を前段落から言いつづけて、これを軽んじないように教えるのです。ルカは「見つけ出すまで捜し回」る姿や「見つけたら、喜んでその羊を担」ぐとか「人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言う」など飼う者の羊への愛を描写し、最後の「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」の結びで「悔い改め」る者の救われる喜びが強調されます。一匹を「見失った人」の心配と喜びの愛情をファリサイ人に訴えかけるルカにたいして、マタイはあくまで「迷い出た一匹」を「軽んじないように」することを弟子たちに命じます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」の言葉でイエスは父である神の小さな者への愛と受容の赦しを示そうとするのです。

 「迷い出た」とは「迷わされた」とも訳せる言葉です。イエスの言葉では、もし捜し出さなければ「迷わされた一匹」は神から遠く隔絶されて「滅び」てしまうのです。マタイは1節から「天の国でいちばん偉い」者がじつは「子供」のようにもっとも「低く」てもっとも遠く離れ「迷わされ」て「滅びる」かもしれない「小さな」存在であることを言いつづけられます。イエスはこの「小さな者」を受け入れることをまたこの「小さな者」と共にあることをわたしたちに教えるのです。

 目につくのは、ここ10節に「彼らの天使」が表われることです。おそらくこれはこの時代に考えられていた「守護天使」と思われます。人間一人一人に遣わされていた天使で神へのとりなしの務めをなしていたと考えられます。そうして彼らは夫々の人間の生活を守っていたのでしょう。顔を挙げ神を仰いで人間のために祈っていたのです。わたしは天使の顔に涙が溢れている情景を見ざるをえません。もし天使たちの守るこの弱く低く「小さな者」が他の人間から受け入れられず軽んじられ侮られそして「滅びる」ならば、天使の心は痛み、神はどれほどみ心を傷つけられることでしょう。小さな者をないがしろにすることは神の愛を損ない神に敵することにほかならないのです。今、わたしたちはこの神への敵対行為が世界のいたるところで行われていることに驚かざるをえません。利害ある者どうしが対立し争い合うというよりももっと恐ろしいことが起きています。それはいくつかの地上の政治的指導者が自分の思いのままに抵抗さえできない弱く低い「小さな者」である人々や民衆、国民を大量に傷つけ殺害していることです。かつてのように自国の独立や尊厳のための争いをはるかに越えて、地上の指導者はまさに自己の権力拡大のため権威誇示のため神が愛しておられる人々の命を奪い、創造された自然の秩序を破壊して神のみ心に敵対しているのです。しかし小さな者への「侮り」や「蔑み」、「傷つけ」は日常にもあります。自我を膨脹拡大し「上からの目線」で他者を支配する傲慢、ひとりよがりの正義によって隣人の尊厳を貫き死にさえ至らしめる精神的暴行が蔓延しています。

 イエスは言います、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」また「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と。愛はわたしたちが一人一人を「受け入れる」ことによって生まれます。喜びはわたしたちが神によって「同じ者」とされ「共にある者」とされたことから始まります。イエスは一匹の羊を追い求めます。イエスは小さな者に仕え、小さな者の十字架にさえ来られます。受け入れるとは小さな者の十字架の痛みを背負うことです。彼の苦しみの十字架を背負う、あなたの命を背負う、理解する、そして手をさしのべることこそが神もわたしたちも共に実現する天の喜びとなるのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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