説教20250706マタイによる福音書18章1~5
「天国は謙虚な人々のために」
聖書
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
説教
心理治療家の河合隼雄氏は心の「キャナライゼーション(水路づくり)」ということを言っています。心の問題をかかえる人とかかわるとき、確かに問題はクライエントのものだけれども、治療者はクライエントの内面をただ一方的に解釈してそれに適した効能の指針や薬剤なんかを投与するだけでは終わらない。治療者は悩むクライエントとの間に「水路(キャナル)」、「運河」をつくってその人の内に溜めこまれた深い水のような内面的エネルギーを自分の内に迎え入れることではじめてクライエントと共に問題に向かうことができるというのです。精神分析では「治療契約」という言い方もあり、クライエント個人の問題ではあるけれど、治療者はただ上から目線で関わるのではなく悩むクライエントと同等の約束の上に立っていっしょにそれを治療するのです。快癒にいしても寛解にしてもクライエント一人がそれに到達するのではなく癒される人間と癒す人間が互いの内面を共有することを知って治癒を確認することができるのです。無論たしかに「水路(キャナル)」や共有といっても、流れ込んでくるエネルギーは非常に複雑であったり、とてつもなく攻撃的だったりすることは理解しておくべきですが。
イエスに弟子たちがこう問いました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。どこか切羽詰まった焦りのようなものを感じます。16章でファリサイ派が「天からのしるしを見せよ」と迫って以来、イエスは自分がメシアとして為すべきことの自覚を強く抱いたのでした。その後すぐにイエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問い、シモン・ペトロの「あなたはメシア」との告白を受けます。山上ではモーセヤエリヤと共に真っ白に輝いてご自分のメシアたる姿を明確に現したのでした。その後イエスはより強くメシアとしてのご自分の受難と復活を弟子たちに打ち明けられますが、彼らは非常に悲しんだとあります。こうしたイエスのメシア、救世主として受難のエルサレムへの道がはっきりとしてきたその頃に、弟子たちはイエスに問うたのでした。「だれがいちばん偉い」のかと。こうした地位の要望の訴えは20章にもありますが、そこでは弟子たちの母親から申しだされています。もしイエスが「王座に」着いた時にはゼベダイの二人の息子の「一人を右に、一人を左に」などとあからさまな要求にまで行きつくのでした。イエスにとってメシアであることは受難の悲しみと死の怖れと復活に対決することであるのに対し、弟子たちにとってはたんに「偉い地位」獲得の絶好の機会にしか見えなかったのです。
そんな弟子たちの思惑をすでにイエスは心に納めていたのでしょう。ある意表を突くようなことを弟子たちの前でおこなったのでした。イエスは一人の子供を呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせたのでした。そしてこう言ったのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。あなたがたは「だれが天の国でいちばん偉いか」と聞く。いやあなたがたは、子供のようにならなければ絶対に天の国には入れないだろう。「偉い」は言語では「メガ」です。「メガトン」とか「メガバンク」「メガロポリス」などの「巨大」とか「地位が高い」とかの意味です。「有力」という意味もあるでしょう。天の国ではだれがいったい「最上位」ですか、「有力ですか」。だれがイエスの右腕、左腕になれるでしょうか。弟子たちは天の国を有力な者や有能な者が大手を振って歩くような世界のように思っていたのです。
ところがそんな彼らにイエスは「子供」を弟子たちの真ん中に立たせたのです。イエスのために立ち回り走り回って用を為す大の大人である弟子たちの真ん中に。子供の原語は「パイディア」で教育を意味する「ペダゴジー」の語源で、能力を「引っ張り出してやらねばならないもの」というものです。つまりまだ能力の現れていない小さく弱い存在のことです。自分こそはイエスのためにいちばん働けると思っていた弟子に示されたのは、逆に何も知らずできずの子供だったのです。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とイエスは言います。「低く」、それは「みすぼらしく」という意味さえあります。他人から見て「見下げられる、卑しまれる」ほどにというのです。遠藤周作さんの「おバカさん」という作品には一人の銀行員を慕ってやまない友人が出てきますが、人から「おバカさん」とさげすまれるまでにお人好しで、騙され、バカにされ、のけ者にされるが最後まで一途に友人のために尽くしとおすのです。それは遠藤さんのキリスト像だということですが、イエスはそんな子供のように弱く愚かで無能で心の低い人こそが神の国つまり天国に生きる者だと言うのです。
さて、しかしここで大いに注意すべきことがあります。イエスは「小さくなれ」とか「無力になれ」とは言っていないことです。なるほどわたしたちは弟子たちのように天の国で「偉い」人間になろうとまでは考えないでしょう。でもわたしたちは天の国、神の国を愛に満ち溢れている世界のように想像します。そしてなにか立派な聖人か天使のように心も人格も愛が備わっている人々の国のように思います。そしてわたしたちも天の国に招かれるには何かしらそんな愛や人徳の片鱗を身につけなければと図々しく思ってしまわないでしょうか。でもイエスの言葉はそうではないのです。「自分を低くして、この子供のようになる人が」偉いとイエスは言いますが「そうなれ」とは言っていないのです。答えはそこにはないのです。イエスは「偉く(メガ)なる」ことを教えてはいないのです。
その言葉の最後にはイエスはこう言われます。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。イエスを信じるゆえに小さく弱い者を受け入れるならそれはイエスを受け入れることだ。イエスの目は「小さな者」へ向けられます。イエスは「小さな者」を「受け入れる」ことを教えるのです。この小さく低き人々を「受け入れる」ことこそわたしたちに向けられた主のメッセージにほかなりません。それは罪深いわたしたちのためにどこまでも身を低く死へとまで下られた救い主イエスの「名」を思うことによってしかできないことです。イエスが罪に苦しめられ死に脅かされるわたしたちへと「十字架の死」という「受難の水路」をわたって来られたことを信じるとき、わたしたち自身も自分自身の水路である十字架を通って「小さい者」である隣人へとつながることがゆるされるのです。
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